1405屋久島灯台2

今回の添付は 新たに描いたわけではないです。
前に添付した作画をフォトショップで加工しただけ。
これは、ただトーンを落としただけ。一秒もかからずにこの状態に成る。だから、ぼくが描いたのではない。
このようなことが 一瞬で起きていいのだろうかとおもう。

技術もぼく自身では無い。
この技術は パソコンの内部に「あらかじめ」あるものだ。
ぼくは、マウスを 2~3回 クリックしただけです。
だから、こういうのは 当然の機械の能力内現象であって 作り手にとっては偶然に近いようなことであって 決して「個人の才能では無い」。

実際に 「手描き」で これを描くのは かなりの想像力と創造技術が 必要だとおもいます。
その過程を想像するだけで 「うんざり」します(笑)。
そのことを体感自覚することのほうが、創作家として よほど役に立つとおもいます。


何年も前のことですが、創作資金の工面のためにアルバイトを探していたことがあります。
あるデザイン会社の人に「イラストレーターの8・0を使えるなら いつでもすぐに仕事をあげるよ」といわれた。ぼくは、なんのことかわからなかった。ソフトとかバージョンを知らなかったし。美術仲間に聞いて言葉の意味はわかったのだけど、使い方なんてサッパリわからない。一日くらい触ってみたが、ほとんど解明できなかった。なので、今でもイラストレーターを使えない。ということで、そのときもバイトはできなかった。

その後も、「ホームページを開設するといいよ」とかアドバイスをしてくれる仲間は、たくさん居たが。どうやって創ったらいいのかわからない。「HTMLだよ」とか言われても、ますますわからない。HTMLの本を手にしてみた。頁をめくってみたが、わからない。文字は読める、文章もわかる。「書いてある内容」が解らない。
ぼくは、時間が もったいないとおもった。
なぜ 自分が これを修得せねばならないのかが わからなかった。ホームページをつくったらいいという意味価値は理解できた。しかし、なぜ、自分が 自分の仕事の時間を割いて これを修得「身につけねばならないのか?」ということが どうしても理解できませんでした。なんだか 腑に落ちなかったです。ただでさえ ぼくには才能が無いのに、「自分の仕事」を 放り出して 他のことをやっていていいのか?みたいな感じです。

ぼくには、「時間」しかない。

以前、週間金曜日に 筑紫哲也さんが、才能の無い者が ある程度の実績結果を出すためには「命をかけるか カネをかけるか 時間をかけるか しかない」と書いていた。
ぼくは、貧乏だ。だから、ぼくには、『時間しかない』と想っていました。今もそのようにおもっています。
ぼくは、「体を資本」にして仕事をしてきたので、たびたび入院手術をしました、いまは、摘出可能な臓器が少ないです(笑)。だから「命がけ」は ちょっと しんどい。両肺が三分の一ずつ無いし 胆嚢が無いです、癌のときに下腹部の臓器の一部が無いです。心臓もイマイチです、最近発作は出てないですが。とか書くと 不健康自慢みたいで恥ずかしいですが。自身は いたって健康です。地平線会議の人たちが読まれているブログで こういうことを書くと 軟弱すぎて 笑われてしまいます。

貧乏な創作家たちは「時間を奪われてはならない」とおもいます。
創作について 自身の世界観について 想い考える時間を持つことだと想います。人間は、どのような局面においても「感じる」ことはできる。しかし、感じたことを 記憶にとどめて 自発的に想い思考するかどうか?そのことによって 想像や創造が変わってくる。ぼくは、そのように、想っています。
だから、考える時間は ほんとうに大切だとおもいます。そのことによって「気づく」ことがある。そして 次には、気づきを実際的に さらに試行錯誤 模索したり 具体的に自身なりに実験してゆく時間が必要だとおもいます。

ぼくは、たとえ鉛筆一本で描いても お絵かきソフトには 絶対に負けない。しかし、だから、なにがどうということでもない社会が現在日本社会・文化。
「いまどき なにを 言ってるんだい。きみは?」みたいな こちらが見下され 笑われ 説教されてしまうような そのようなことが 常識になっているのが 現行の日本社会。
ああ、もしかしたら、ぼくは 人よりも とても劣っている 「恥ずかしい」人間なのだろうか? と自問し 凹み 落ち込むような 日本社会。もう、だれとも ぼくの夢見てるような美術(創造)の話は 通じないのかもしれない。
今の日本社会にとっては ぼくのような者が、芸術家を目指すことは、邪魔で 迷惑なことなのかもしれない。まぁ、邪魔にすらならないのだろうけども。