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先日。老母親の様子見に関西へ帰省してきました。
そのときに神戸で「北斎展覧会」を見ることが成せました。
仲間が誘ってくれました。
そして さらに北斎の『絵本』(作画教本)を送ってくれました。
勉強の資料は なかなか買うことができないです。ですから すごく 嬉しいです。美術の視覚修得というのは、図書館から数週間資料を借りてきて わかるとか そういうことでは無い場合があるので。
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とりあえず てきとーに模写してみる
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えーと。
「模写」ということには、いろいろなやり方があります。というか、どの芸術家の どの時期の 「なに」を模写するかによって 方法もなにもかも変わる。ぼく自身の 現在の「必要」(自分自身が なにを求めているか)によっても 変わります。
「ぼくの想う北斎」は、まず「勢い」なので、勢いで描いてみます。
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描いていてわかることは。
北斎の絵は、ときが動いてるのがわかります。
歌川国芳の絵もいいのだけど、北斎のほうが はるかに 時間が絵画空間に同調している。だから、ムンクとは、真逆みたいな感じ。技術的に描けないとかそういうことじゃなくって、北斎が 明らかに 「その方向を目指していた」ことが伺えるということ。
いわゆる、当時の作者の「主観」みたいなことが、なんとなく 見えてくるということ。体感として。
その芸術家が そのときに なにをやろうとしていたのかを 解りながら 模写してゆかないと 意味が無い。
歌川広重の絵は さすがに止まっていない。
北斎から どれほどの多大な影響を受けていたかが わかる。
かといって、国芳がダメだと言ってるのではないです。
国芳には、自身なりの「テーマ」があったから。
あいかわらず 大仰な作文で すいません。
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北斎は、描く対象によって、筆のスピードを変えていたことが、わかります。
もちろん、それは、画家ならば だれしもやっているだとおもいますが。
北斎の場合は、たとえば植物の成長に合わせて 画筆の速度を変えてる。そこが、スゴイ!と おもいました。
桜とかの樹の枝を描くときは、じわじわと ゆっくり描いてる。それは、とても力強い「ゆっくり」。春先とか 草木がグイグイ伸び盛るときは、成長をズバッと描いてる。ただたんに 「強さ」を表現してるんじゃない。たんに 現実をカメラみたいに表面描写してるわけじゃない。描きながら 樹に成ってる。描きながら 画面に 「樹」を育んでるんだ。
それが、知れたとき、おもわず 泣けた。
ありがたい教えを 頂戴した。
とは言うものの
なんだか、ほんと、自分は ぜんぜん素人だなぁとおもいます。
まだ、絵画(芸術家)の入り口にも立っていない…って感じ。
ぼくみたいな入門者から 熟達者まで 学ぶことができる『絵本』だとおもいます。
だれもが、どこまでも学べる教科書だとおもいます。
趣味で「北斎絵本を描く会」とか みんな やれば おもしろいと おもいます。とてもカンタンに「北斎っぽく」描ける絵もあるし。
偉い。北斎 えらい。
先生は やっぱし えらくなくてはならないと おもいました。
ぼく的には
白土三平や杉浦 日向子もスゴイけど 北斎もすごいな~~。ぼくは、 だれにも かなわない。みたいな そういう 感じの自分なので。
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北斎と歌川は 一度会ってるらしい。浅草雷門界隈。
そのとき 北斎は なんと言ったのか?
とても興味があります。北斎ほどの人物が、真摯な作画師を ただ 門前払いなどしないとおもう。広重も プレゼン資料をしっかりと持参したはず。
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北斎は、ぼくが 会ってみたい人の 一人です。
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ということで、仕事を サボって 落描きをしていました
ぃや、これも ぼくの大切な「仕事」なのだけれど。
江戸から明治にかけてあたりまでは、日本も 豊かな社会だったような気がする。それは金銭的に貧しくても 豊か 幸せ 愛情。つまり「社会」が 在った・活きていた ということなのだとおもいます。
当時の美術家たちの 仕事のあり方を 知れば知るほどに そのように おもいます。
江戸は 「古典では無い」と おもいます。ぼくたちの だれもが行ける 可能な 今に活かせる「世界観」(想い)だと おもいます。江戸は新しい。今の日本が、江戸から学ぶことは大きいとおもいます。
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あと 北斎が使っていた筆は ハンパじゃないとおもいました。
すごい筆を 持ってる
北斎の使ってた「筆」が 欲しい
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以下は ネットから 抜粋です。
http://hokusai-kan.com/w/?page_id=441
北斎氏の最期の様子が、弟子の一人露木為一氏によって明らかにされました。
北斎氏は、「天我をして十年の命を長ふせしめばと言い、暫くして更に言いて曰く。天我をして五年の命を保たしめば 真正の画工となるを得べし」と言い残したそうです。つまり、北
斎氏は、「天があと十年の間、私に命を与えてくれたなら」と言い、しばらくしてさらに、「天があと五年の間、命を保つことを私に許してくれたなら、必ずやまさに本物といえる画工になり得たであろう」と言われたそうです。
◆同上からの引用・歌川広重の言葉
私の最も敬愛する北斎先生がお亡くなりになられた。何とも言えない悲しみが、いま私を包んでいます。
先生は私たち浮世絵師の偉大な先輩であり、我が国ばかりでなく、世界の美術界を代表する偉人であります。
私はいま五十三歳ですから、先生とは三十七歳違いです。しかし、先生は常に革新的で、技法にしても挑戦し続けるといった方でした。大きく言って浮世絵界は私の所属する歌川派が全盛の時代です。先生のように、どこのグループにも所属せず、ただ一人我が道を歩まれ、画業を大成されたのは、他に渓斎英泉のみで、その点からみても大変な努力家であり、並大抵のことではありません。
私が先生の「冨嶽三十六景」に衝撃を受け、「東海道五十三次」を描いたことはいうまでもありません。それほどにこの作品は、我が国浮世絵界の宝といっても言い過ぎではありません。特に「神奈川沖浪裏」や「山下白雨」など構図のみごとさ、遠近法、静と動の対比には感服いたします。私の絵はどちらかというと、叙情的に描くのに対し、先生は題材に対し非常に乾いた目で描かれています。
世の中では、北斎と広重はライバルなどと騒ぎ立てますが、私には大それたことで、大変迷惑しております。
日本も外国船がたびたびやって来て、長かった鎖国の時代もそろそろ終わることでしょう。世界の画家たちに学び、これからの美術界をもっと盛り上げていくことが、先生への恩返しかと考えております。
先生の御魂が安らかならんことをお祈りして。
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