ぼくは、社会活動と生活と創作仕事との 境界のようなものが、徐々に無くなりつつあります。
生き方が「作品」みたいに 成ってきてしまってる。

貧乏だと デモにも参加できないです。都内へ出る交通費が無いし。なので、自分自身で成せる社会活動を続行しております。そうすると、それは「生活する」ことと同じようなことになってしまう。本来の創作仕事も影響をうけてくるし。三つが、同居して なんとか「生きる」ということを成してる感じです。

「貧乏でも それなりに豊かに健やかに生きている」という態度を 自分自身が実際で見せてゆくこと。というか。結果的に、こうなっちゃってるんだけど。特に貧乏賛歌ということではありませんが、工夫次第でなんとか生きてゆけるという証みたいなものが無いと、これから貧乏人生を目指す(笑)人たちが 不安だとおもうしね。

だけど、ぼく自身は、まだまだ工夫が足りない。いまの自分に、納得がゆかないです。
思想では社会は変わらないと想っています。ぼくが あーだこーだ考えてしまうのは、自分自身のモチベーションを維持するためです。自己鼓舞するために、なんらか、自身の歩みを肯定補完する裏づけが いつもほしいというか…。現在地が把握できていないと歩けないですから。ぼくが「想いを言葉にする」ことは、コンパスと地図のような意味だと想います。目前がホワイトアウトみたいなことになることは たびたびあります。

自分と同じような生き方をしている人が身近に多勢居れば、あまり考えることも無いかもしれないです。実働として 市民たちと共に「やること」が 生まれてくるとおもうし。
いまは、孤立しない工夫とか 自身の創作をどう展開してゆくかとか、そういうことで手一杯です。それも、成せていないです。

現行の日本社会では、 全体責任が 全部「個人責任」へ転嫁されてしまう。自己責任・自業自得という風に 個人が責任を背負わねば成らない。だから、企業や行政の中でも、個人の才能(提案・アイデア)が なかなか発言できない。優れた発想を持っていたとしても 意見は黙殺されてしまう。そして、もしも、失敗したら 発案者が責められてしまう。命がけで提案せねばならない。
日本では、子どものころから、なにか変わったことを言うと「責任が取れるのか?」と 大人から言われてしまう。全体の中の偏りを孤立排除する傾向が根付いている。
現場で命がけで動いた人は無視されてしまう。従業員の代わりは いくらでもいる。そのような考え方では個性は伸びないし、企業も成長しない。
偏りを活かせないことは、もったいないことだとおもいます。

ぼくは、個人の想い「気づき」を 全体がフォロー・サポート・サルベージするような意識が必要だとおもいます。リスクや必要なスキルも 周囲が相互理解疎通連携して成してゆくのが善いとおもいます。もしも、計画が失敗しても、周囲が勇気付ける立場だとおもいます。そのような 前向きな流れの中での失敗や頓挫は、チーム全体(あるいは社会)の糧になると ぼくは想っています。
で、
貧乏な個人に何ができるかというと。

対話を大切にすることとか、冗長に生きることとか、完璧では無いこと(どこかほころびている)。はざまとか 混沌を生きることとか。中空に生きながら バランスを取り続ける。
「出会い 向き合い 語り合い」分かち合い 助け合い…協力するような現場を 少しでも増やしてゆく。
それを なるべく楽しみながら おもしろおかしくやってゆくこと。
生きることとか 仕事とかは ほんとうは おもしろいことだと ぼくは想っているので。

 
まぁ、ぼくは、冗長が過ぎて 社会には「無駄な人間」かもしれませんが。ほころびすぎていて ゴミみたいな存在かもしれませんが。
いつも、独りで飲むと、自分自身のダメ出し大会に陥って、自己卑下 四面楚歌に成ります。幼稚無能に 凹みます。
そこを、さらに 無理やり自己鼓舞する企てを考えてゆきます。

勘違いと 思い込みの補完を成すわけです(笑)