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ぼくたちは必要を与えられる側では無い。
必要は、いつもぼくたちの手中にある。
ぼくたちにとって、なにが必要で、なにがやりたいのか、なにが好きなのかは、ぼくたちが決める。
ぼくたちが此処に居る限り 此処は ぼくたちのもの
ともだちも 家族も 友愛も信頼も尊敬も ぼくたちのもの
感情も命も ぼくたちのもの
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「ぼくたちのもの」
このことは 独占所有支配の意味では けっして無く
ぼくたちは、国家から ともだちや家族や子どもを 借りているのでは無い
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感性が不安を察知する
今、さまざまな想像力/観察力を発揮することはよいことだとおもう。
ぼくたちは、必ずいつかやってくる(避けることのできない)地震や台風を待ち構えて対策対応するのでは無い
ぼくたちは、ぼくたち自身が「起こしかねない」「関与しかねない」ことについて、今、此処から、個々が、想像を開示、会って話し合って相談できる そのような立場に まさに生きてる ということなのだとおもう。
言い方を変えるならば、
「人為について」の 「社会人として」の義務と責任を(ある意味で先回りして)思考できる立場に、だれもが居るっていうか。
義務とか責任って言うと、なんか、おもしろくなくなってしまうかもだけど。っていうか、こういうときに、オモシロイとか楽しいって言葉を用いるのは、不謹慎というのかもしれないけども。「生きる」こととか「社会を創り育む」とかは、どういう しんどい状況であれ楽しいことだとおもう。
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なにかを 創造しようとするきには、観察眼と想像力を活性し解き放ち 相談や話し合いをたくさんするのがよいとおもう
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