◆
ぼくたちがなぜ創るのか、なぜ表現行為することができるのか
◆
それは ひとことでいえるなら いまが平和だからだとおもう
「いまが平和」などというと 反論も多々あるだろうと おもうのだけれども
絶望の国家を生きながら それでもなお 「平和を生きよう」とする そのような自由意志が活きていても よいはずだ とおもいます
◆
◆
なぜ ぼくが彫刻作品を創ることができるのか?
それは、センスや観察力や技術や材料や資金やモチベーションがあるからでは無い
今の日本社会(時代)が平和だからだとおもいます
『自分で自由に使える時間』があるから
自分の感性に従って生きることができるから
だから、今日、平和の証明をしながら生きる。まさに今日を平和に生ききる。
アーティストたちは迷惑がられ困られても、毎日の平和を生ききってゆく
明日も一年後も 日々平和をイメージして「平和らしく」を生ききる
10年後30年後の平和をイメージして、その平和らしさを今日から生きる。
それが 平和な国をつくること
とは言っても
ぼくには10年後の平和がどうであるかは具体的には まったくわからないが。たとえば、人たちが愛し合う社会をイメージして生きる。身近に さまざまな幸せや豊さをイメージしてみる。
創る時間が無いということは、社会が平和で無くなって来てるということだと思います。
戦争中は多くの芸術家らも銃を手に戦場へ行かされた。
死んだ。
才能がどれほど有っても 社会が平和でなければ 芸術作品は生まれない などということは決してないのだけれども。
アーティストたちが作品表現をし続けるということが
すなわち 平和ということの証と成る
創作家にとって必要なのは、想像するための時間だと思う
手間隙かけないと さくひんは 創れない
多大な冗長を生きていなければ 想像は深まらず 広がらない
圧倒的な暇が無ければイメージは深まらない 空や海をひたすら眺める時間は大切 川の音 森の音をただ聴きながす 都市でも同じように 同じように「天然」で感受する 脳が直接外気に曝されるようにヒリヒリする感じ
損得勘定が介入しない 勝ち負けがない 利害に無関係 競争ではない そうでなければ 「自分の表現」は できない
だから アーティストは
感受性への攻撃を回避する
デリカシーの破壊を防御する
想像すること 創造することによって
芸術ということが仕事であるならば、それは賃金労働ではない
「魂の労働」だとおもう
◆
八月三十日は、国会前に行ってきました。
ぼくは、久しぶりのデモ参加でした。
いいデモでした。この言い方は 変かもしれないけども。
まぁ、そのときの 参加の体感/感受が、この作文を自分に書かせている。
学生たちの想いは 優越感や虚栄心の伴わない誇り
代わる代わる灯される 継承される小さなろうそくの炎
学生が、社会人としての役割を率先行動しているという感じのデモ表現。
学生が、企画段階から頑張っていた。
価値のある 社会的表現だった。
現在の日本社会では、賃金労働に就いてしまうと、「社会人として生きにくい」という奇妙な立場に陥ってしまう。
金銭的に自立することが社会人としての使命役割では無くて「社会を善くしよう」と思考工夫して生きることが社会人でしょう。
ですから社会人としてしっかりと生きていたら、親のカネで生きていようが、気にすることは無いでしょう。
各人が社会人として自覚的内発的に思考工夫して生きたらよいと思う。
今日1日をどう生きるかは個人の自由
表現の規模も、関係無い。小さいこと 自分の範疇のこと。
作品表現の大切さは、派手さや大きさでは無いと思っています。
ぼく自身も、だれかのとても小さな表現に 大きく感情が振動した体験があります。だれかの ほんの少しの表現に ぼくの感情は 大海の小舟みたいに揺れた。
もちろん、ぼく自身が勝手に感受しているだけなのかもしれない。しかし、それにしたって、自身の感受性が起動した事実は 確かなことだろう。
実社会を 想像的/創造的に生きる
自身の素直さに 問うてみる
「デモだけでは 国家全体は変わらない」だろう。
しかし、「平和だから デモができる」のだと おもいます
自由に内発的に 発言行動行為できるということ
なにも変わらないかもしれない
だけども、「自由」に 自分は ありつづけたらいいとおもう
それぞれの自分は 自分のイメージする平和を たった今から 生きたらいいとおもう
たった今から 自分の民主主義を 生きたらいいとおもう
「今を自由に生きる」そのことそのものが同時に、未来への強度となる
かなり むちゃな 作文なのだろうと思うけども
いま、感じてることを なんとか言葉にしようとしてるだけで。とても無責任な作文かもしれない。言葉は いつも追いつかない。ぃや 言葉に 追いつかれたらダメだ。と言いながら、自分に都合のよい言葉を選んでいるのだけれども。
社会性とか道徳とか倫理とか そういうことで作品や言葉を描いてるのではなくて。
もちろん ひとは 道徳や哲学で人を好きになるのではないと思うし 倫理観で泣くことはできない とおもうし。
なにかの「しくみ」に依存して合法的に人に対峙してるのでは無いです。変な言い方で もうしわけありませんが。むしろ、あるときは、ぼくはとても無礼なことをしながら生きてるとおもいます。
◆
ただ たとえば、
国家というだれそれかの虚栄心の維持のために 国民が犠牲を支払うのは 奇妙だとおもいます
なんで 犠牲者を出してまで経済を活性しなければならないのか 意味がわからない。
なんで 「金持ちのフリ」をしなければならないのか そういう生き方の価値が わからない。
こうやって書いてることは
なにもかも ぼくが 個人的/私的に 自分勝手に そのように おもうだけ
◆