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彫刻作品を創るときは、長期間 引きこもり思考しますが。
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器を創るときも ある程度の日数、引きこもります。
引きこもるのは、自分ひとりの時間が無ければ 想い描けないから
集中して考えることができないから
そうしながら量産しないようにする。
義務感で技術や技法を発動しないというか
「創る」気持ちを 前向きに待つ感じ。呼びにはゆかない。
来訪を快く招き入れる
客人というより 対等なパートナー
そうすることによって 偏りながら変化のある結果が生まれてくる
チャンネルを切り替えるようにでは無く 分断疎外するようにでは無く
体験や想像のすべては繋がっているままに 創造力が変化更新されてゆく
そうすることによって
さまざまな器が 生まれてくる
大きさも かたちも
同じカップは 無い
均一均質な量産ではなくて「ばらつき」こそが創造には必要。しかし あえて 変化をつけようと想ったわけではないです
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全体一律統合性は無いのだろうとおもうけど
なんだか 共感のあるかたち 似た部族のような
すべては ときどきの自分の感性に従ったさくひん
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器は 末永く使っていただくことを想って 創っています
飽きがこないとか飾らない というよりは 暮らしや人とともに 育ってゆくような感じ
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「引きこもる」みたいなことを 先に書いたけど
それは、
内発的な想いを イメージ化して 実際に具現してゆくことが創作なのだとおもうから。
って、ことばで書くと なんだか 硬いというか 変な感じかもしれないけど
まぁ、みんなで 話し合って楽しくワイワイやりながら実際具現してゆくようなことも 好きです。が、それは、「ぼく」が現時点で目指してるような美術作品というような私的個的内的な偏った世界観のことではなくて「祭り」みたいな楽しみや喜びに向かったほうが善いように想う。ぁあ、まぁ、アートイベントとかもだけど。舞台芸術とかも ある意味で ときによっては、そうかもしれないけど。
みんなで相談しながら考えて具現したほうがよいことと 自分ひとりでやること というのがあるのだとおもう。
どちらも 想像的/創造的なことだとおもう
人の気持ちを聞きたいとおもいます
ネットやメールとかじゃなくて 実際に人と会って話したい
メールが コミュニケーションツールだとは おもえない
だからといって
手書きの自筆の手紙でコミュニケーションが育めるかというと そういうことでもなくて。
ぼくは、手書き郵送を 自分勝手に優先しているだけです。
メールやネットを否定してるのではないです。ぼく自身、ネットを見ないと、必要な情報を知る事ができないし、仕事の連絡もできないので ネットもパソコンも使用しています。
自分自身が個人的に 手書きの便りが届くと嬉しかったし、郵便屋の赤い自転車とか好きだったし。郵便配達とかしてる人に街で会うと いまも カッコイイなっておもう。
人と人が 手間隙かけて なんらか繋がっているような気がする。っていうか。どこかで実際に「人と人」が会わないと成り立たない 先に進まない ような そういう気がする。
そのような、個人的な「思い込み」のようなことを ぼくは信じて生きているだけだろうとおもいます。
といいつつ
クロネコのメール便の気概/理念も 好きでした。
とか、こういうことを書いてると キリがないです。
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