たとえば、卑屈や絶望に 考えが向かうのは不毛なことだろうか。長考の日々は 徒労だろうか。
なにも 発見がないだろうか。

たとえば、勝利よりも敗北に意識を没入させることによって 勝ちでも負けでもない 別の活路を生きることができないものだろうか

「競争は勝っても負けても おもしろくない」という価値観の男の人も居ていいとおもう。

日本社会は、『男に ぶんどり合い』をさせて経済効果を上げてるような気がする。
ぼくは、そういうのが、イヤというか、つまらん。なんで、取り合い競争とかせにゃならんのか? バッカみたいじゃんか。なんか、そもそも競争が 恥ずかしいとおもう気持ちがある(なので、学校の行事のさなかに なんかちゃかしたいというか、ふざけるというか、まじめにふまじめというか)。
で、ぼくは、独りでひきこもって「絵を描いてたほうがいいや」みたいな気持ちかもしれない。
人たちと 仲良しでいたいとはおもうけど。勝ち取りたいとは ぜんぜん想わない。だから(何についても)「男なら、戦って勝ち取ってきなさい」という発想が、そもそも おもしろくない。楽しいとおもわない。
だれのことも支配も独占も所有もしたくない。

競争は、
たとえば、なんだか、一番に成ったとたんに恥ずかしく成るというか。まぁ、実力もないわけだけど。しかし、受験に堕ちても 落ち込むわけだし。たかが受験なのに、そのようにはなかなか受け止められない。

善い事であろうが悪い事であろうが「注目される」(めだつ/突出する)と 恥ずかしいし。だから、有名は、恥ずかしい事なのではないのかとか 想うときが在った。こういう気持ちに 理由や意味は無いのかもしれない。
高校のとき いい絵が描けたことが 恥ずかしかった。宿題の絵。いいのが描けたとたんに、なんだか「自分が いいかっこをしてる」ような気がして、恥ずかしく成った。だから、絵の周囲を 絵の具で汚しまくってから提出した。そしたら、美術の先生に怒られた。周囲の汚れが無かったら これはいいのに。とかかんとか。一番とか優位に成る 他者に注目されるような 恥ずかしさ(かっこわるさ)みたいなのが 先生には伝わらなかった。美術は、学年全体評価とかじゃなくて、点数なんか要らないから、「いいのが描けたな」とか、ひっそりと誉めるとか認めてほしい。段階評価でなくて たとえば「共感」それで充分ではないか。

日本の社会の云う通りにっていうことは、
ダブルバインドというか 頭が引き裂かれるような 日常が役者みたいな
だから「麻痺しながら」生きるような 社会に成ってるんだとおもう。みんな気が狂ってる(笑)っていうかなあ。
競争って 不毛だとおもう。いまの日本社会は創造的で無いとおもう。それは、人付き合いに付いても。
競争の生み出す生産性は、意味が無い。むしろ退行してるようにおもう。
というような ぼくのような 臆病な弱っちょろい「勝ち取れない」ような男は 好かれない社会なのだとおもう。現行に本社会においては、好ましく無い生き方なのだとおもいます。「甘い」「子どもだな」とか 言われるのだとおもいます。
「そんなことでは日本では生きてゆけないよ」って言われる。
だけども、ぼくは 生きている。いままで ずーーっと生きて来たじゃないか。此処に居るではないか。右往左往ジタバタしながら、証明しつづける。

日本の子どもら(男女問わずです)は、けっこう「暴力的」に 育てられてるっておもうときがあります
自己否定を強いるような感じでもあるとおもう すなおに生きてはダメ みたいなな
ぼくは、そのように感じる。


男性自身の男ぎらい(自分嫌い)は、あるとおもう。
男性性から逃れたい 脱したい男たち。現行社会は しっくりこない でも「男として」の使命/命題を担わないといけない。すなおな「自分」を禁止してしまう。そこからの離脱や逃避を模索する。
ぼくも その一人だとおもう。

だから、自分は 自己嫌悪と格闘するしかない。

上昇志向の人たちは、階段を上がる為に 人を利用しつくして 切り捨ててゆく。
けっきょく、下層との距離ができるばかりだ。

上昇志向は、
階段の各所にゴールが設定されている、

独特のマナーや挨拶交換が決められている。
規律や戒律がある。

規則化規制化記号化によって、
冗長やほころびが侵入する余地を排除してゆく。

大学入試は三次試験まで重ねて、合格者を『狭く』厳選する。
けっきょく、大学に残る者らは 同じ条件をクリアしてきた
選び抜かれた『似た者同士』という状況が続いているであろうとおもいます。
日本の美術界で交わされているのは、彼ら似た者同士らの共通言語にほかならない。

日本社会は、生きにくいとおもう。そういう気持ちがずーーっとある。
自分の考え方や視点の工夫でなんとかなるところは、なんとかしたい。自己の抑鬱とか。自己嫌悪とか。
自分の現在地立場みたいなことも自分なりに知りたいとおもった。社会的にということではなくて、対人の中でということ。

絶望(抑鬱)の受容から みえてくることがある

概念強要からの離脱。日本社会の「男らしくありなさい」「消費者でありなさい」という指令からの逃走経緯から生まれる創作を思考できないだろうか。強靭で大きな彫刻から、手のひらサイズの彫刻へ。頑丈な彫刻から、壊れやすい彫刻へ。勇ましい彫刻からチャーミングな彫刻へ。
ぼくは、人の気持ち(感情)というものは、巨大さや強大さ、支配力や権力、そういったものによって感動するのでは無いとおもっているからです。
小さな ささやくような唄にも 人のきもちは、大海の木の葉のように動揺することがあることを ぼくは信じています。