老母親の宅配給食の おせちを 自作器に盛り付けました
ぼくは親孝行ではなくて、いつもママゴトみたいなことをしている
帰省して母親に喜ばれ、もしもそれが親孝行だとしても。親孝行では、社会は善くならないでしょう?
その間、ぼくは仕事を休んでいるのだし、なんだか、矛盾だらけに生きております。
いまの日本の結婚や子育ては 閉じている感じがします。ぼくの親孝行も やっぱり閉じていると思います。実家界隈の感じが、そもそも閉じている感じ。野宿者なんか絶対に禁止だしね(笑)
ぼくは、だれもが子育てや介護(福祉)に参加できるような社会が成熟した優れた国だとおもいます。自分の子どもを安心して数ヶ月間あずけることができるような人を総理大臣に選べば善いとおもいます。
どれほど親孝行して母親が健やかに喜んでも、「これでは社会は善くならないんだよなぁ」と思いながら実家に滞在している。こういうことを考え悩んでもしょうがないのかもしれない。とすると、自分は不毛な人間。そうやって 凹み落ち込んでゆきます。
そもそも、いまの日本の常識のような「親孝行」なことは何ら ぼくは成せていない。孫の顔を親に見せるどころか、金銭的自立すら成していない(笑)。むしろ、ますます、国策の推奨する社会常識から乖離しているようにおもう。いわゆる、世間で云われる「親不孝とは ぼくのことです」みたいな生き方を している。放蕩であり幼稚軟弱。そのような思考方向を深化してゆくと、ぼくという個は、敗北感/劣等感/罪悪感に占拠されてゆきます。正月などは、家族連ればかりで、圧倒されることができます。うかつに「風景」に溶け込むと意味不明の敗北感に打ちのめされたりします(笑)。しかし、そこで「意味不明」として片付けるわけにはゆかないのが、美術家という職業の性と云うか(笑)。これは「なんだ?」なんなのだっていう、観察。日本の現行社会と 「自己」のギャップというか。ビジュアルを観察しながら、自己の体内へとダイブ(潜航)してゆく。
ああ。ぜんぜん関係ないけど、今、思い出した事があります。
それは、行為芸術の一環として展開してたことなんだけども。「人は、どのあたりから風景に成るのか?」という実験作品の繰り返し。祭りの現場とか旅先で実行する。「友だちに 徐々に離れていってもらう」 ただそれだけ。それだけなんだけど、これが、お互いに 実に「おもしろい心理変化を呼び覚ます」。友だちが「風景に成ってゆく」。その経緯を まざまざと目撃視認体感できる時間経緯。どこから個は、ビジュアルとして集団になるのだろう?どこまで、ぼくは、友を視認追うことができるのだろうか?
見失った。烏合の衆。友だちは「風景に成った」「都市に成った」。個は、全体に混入して、どこかへ行ってしまった。
ああ、「手を振った」あそこに居る。合図だ。その合図を読み取ったのは、いま、この大勢の中のぼくだけだ。「唯一が繋がるとき」。「ここに居る」。「わたしは 此処に居ます」と 伝える気持ちに 感動する。都市から「ほんのちょっとだけ、手がひらひら」。世界中で ぼくに向けてだけ 発信されたサインだ。
そうだ。「大丈夫だ」、ぼくたちは、大丈夫なんだっておもう瞬間がそこに生まれる。
ケータイもパソコンもネットも 資本主義も 周到な擦り込み社会常識も ことごとく破壊される 駆逐される。ぼくたちに もしも 勝利があるのだとしたら 「そこだ」。
って すぐに また 一般の現実に慣れ親しむのだけども、ケータイ無いと困るし(笑)。だけども、こういう発作的実験作品の繰り返しが、人間本来の「性能」を回帰想起するきっかけに成りはしないかと想っています。
「存在」とはなんだろう?
だれが、個の存在を保証/保障/補償するのだろう?
人 ひとりが成せることは、ほんとうに小さい。
彫刻も小さい。
「小さいけど大きい 大きいけど小さい」
想いは つのる
かけがえのない どこにでもある
だれにでもできる ぼくにしかできない
交換不可能な ありきたりな風景
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合図を送る シグナルを読み取る
こちらも合図を送る
遠くて近い 近くて遠い
不毛だろうか たった ちっぽけな存在は 不毛だろうか
きっと 視ているひとがいる
不毛を視とどけているひとがいる
とか 云ってしまうと 冗談みたいになってしまうけど
合図を送れない人もいる シグナルを読み取れない事もある
友だちの危篤を 気づけないことがある 無念だ
合図を送ろう
シグナルを読み取ろう
◆
そうだ、灯台(彫刻作品)を創らなくては。
友から 送られてきた 一枚の灯台の写真が起点。
◆
まぁ、ということで、
ぼくは、ただ「母親と居る」ということを やっております。
母親と目前に まさに「居る」ということの、お互いの 触覚の情報認識量は、ただ数日でもすごいです。千回電話するよりも。人は さまざまな全身全霊の能力を駆使して接触している。それらは、無意識にやわらかく温かく。
そして 怠惰愚行にかもしれない。
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ちなみに、おせち弁当は千五百円くらいらしい。
ぼくが創った器に盛りつけると なんだか いい感じ。器や風景は 高級とは云えないが、なんだか 精悍な感じがする。正月にふさわしい。
ぼくのような怠惰な愚人が創った 器とはおもえない
「作品に自己を入れない」という創作指針は 正解だと あらためて想った(笑)
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お母さん ダメな息子で ごめんなさい
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