空想は逃避でしょうか?

イメージの世界へ行ったきりに成って
現実に「もう帰りたくない」という気持ちに成ったことが、子どもの頃にはあるでしょう?

たとえば、ステキな夢を視たときに、続きを視たくて、二度寝を試みるような気持ちに似ている。
アーティストらは、それの強力な感じだと思います。たぶん。

それを 現実逃避とか 言われてしまう。
まぁ、現象としては、まったく同じなのだけど。

妄想が不可欠という職業を 説明しにくい

妄想領域の深化。
いい作品を創るためには、妄想の先を見るしかない。帰還できなくて遭難するアーティスト。
ミイラ取りがミイラに成る みたいなことに陥るのだと思います。

自覚すること。
水平の世界観。
身近な妄想世界。
過度の飲酒による心身破壊は、アスリートの肉体が、ドーピングに侵されてしまうようなことだろうか?

言い方を変えると…。

アーティストは、自覚的に狂ってゆかなくてはならない(笑)

マヌケというか、
いったい、なにをしてるんだろー。

もちろん、狂っていくことが目的ではない。
いい作品を創ること。

しかし、
いい作品が生まれたからといって、
だから、なにがどうということでもない。なにひとつ変わらない。
朝が新しいわけでもない、即日社会が変化するわけでもない。朝日はのぼり 容赦なく社会の抑圧強要は周到。いや、実際には、朝は「いつも あたらしい」、常識や制度が鮮度をもって確認検証更新されないのが いけない。いや、制度を決めるのは、国策では無く、わたしたち国民だとおもう。「必要」は民の側に ある。各人は、現在地の自覚が必要だ。

アーティストは、行けるところまで行って 視たことを そのままに描写するだけ。
だれにでもできる。いかに「恐怖」を 理解(併走の友)するか。そこだけだとおもう。

思考の深みは、魅力的です。
未知。
そして やっぱり怖い(笑)

さまざまな 心身負荷や崩壊破綻は、
職業病みたいなこと、
イメージすること。

なので、
煮詰まると 楽しくない

目的が転化 ブレると 面白くない

アーティストは、ときとして自己破壊だけに陥ってしまう

友だちや 仲間らは
なかなかアーティストの危機的状況に 気づかなかったりする。

アーティストらの さまざまな偏向や欠落を 許容できる社会が無ければ 優れた芸術家は なかなか生まれようが無い。

大学についても 同じように云えると思います。

美術大学が アーティストらの偏向や欠落を 規制管理していたのでは 本末転倒だと思います
たとえば、都市江戸は ほんとうに うまくやっていたとおもう
もちろんさまざまな困難は全国各所にあった、しかし今の 搾取や抑圧強制のようではなかったとおもう
ぼくは、江戸の再起や 縄文への回帰具現を望むのででは無いです。たとえば「江戸」に 共生の学びを 観察できはしないかと想っています。

もう少し 詳しく説明するとすると、
アーティストらが、現行日本社会でそこそこまで行くには、
「カネをかける」か「時間をかける」か「命をかける」か それくらいしか選択肢が無い。

日本社会では「気が狂う」という選択肢が かなり管理規制されているような気がします。
偏向や欠落は、すぐに、社会から排除されたり、問題視されたり。

そして、日本の現代アートというのは、「美しい」か「カッコイイ」か「おもしろい」かで成立してしまうというレベル以上にはなかなか展開しにくいのだと思います。

しかし、
人は「成立に感動するのではない」です。
むしろ、破綻や挫折や失敗や事故に大きく心を揺さぶられたりする。登頂よりも遭難に感動したりする、

つまり、感動は「コツ」ではないと思います。

クライマーが、難度の高い壁で わざと滑落したりしない。
サーファーが わざと無謀な行為をしない。
見る人が見たら(専門家とか) すぐにわかってしまう。大切なことは 入念に計画思慮されたポーズでは無い。知っている人たちは、騙されない。そもそも、自己を騙せない。自分を視る自分からは逃れられない。「無我夢中とトリッキーな成功」とか言ったとしても、言葉の触覚化(リアリティの実際的獲得)は困難だ。
シンプルな冒険行為は芸術にとても似ていると思います。

クライマーもサーファーも 真理の探求者だと思います。

それらは、「魂の労働」と云えると思います。

だから、
わざと、遭難などしない。アーティストは わざと発狂しない。
本末転倒しない自覚が常に必要に成ってくる。

「何もしていない」状態が 続くと なんだか
仕事をサボってる風でないですか?

何日も「ひきこもり」だったり
寝ながらずーっと「天井視てたり」

ときどき ヘヘヘ とか笑み

ダメ人間 でしょう?

アーティストみたいだけど 実は「ロクデナシ」ではないか?

自分は美術家のフリをしている「ナマケモノ」ではないか?

イメージから 現実に帰還できなくて怖くなる感じのときがあります。

たまに、突然、妄想領域に入っていたりするし。

きょくたんな自己卑下・自己否定から抜けられずに落ちていくときもあります。
人間の想像力という行為は、都合のよい方向にだけ広がるわけではないので。そして、アーティストは、そこを回避してはならないと想うし。むしろ希望よりも絶望を探査しなくては、いい作品を創る事はできないとおもいます。「善行しか成されない すべてが美しい 善い人しか登場しない物語」の中に世界観を生きていたのでは、創作仕事はダメだと想います。
なかなかコントロールできないです。ぼくは 醜悪を生きています(笑)。胃潰瘍に成りそうです。

バランス感覚。
地に足を付ける感じでは無い。底は無い。墜ちるしかない。
落下しながら 下降速度を調節する感じ。揺らぎながら 水平を保つ。
思考は上昇しない。戦わないのだから 勝敗も無い。損得も無い。利害も無い。
ただ 喪失は理解する。喪失に落下してゆく。

まあ たぶん いまさら しようがないのだと思います。
ちゃんとした人になりたかったのだけどなー
もう無理 凡人のままに 煩悩に生きる

けっきょく ぼくは「芸術家に憧れているだけ」
の 妄想癖の ロクデナシ

ぼくは、ぼくの関心事とか好奇心とか イメージすることから逃げることができなくて ヘトヘトに成ったりしました。

いろんな人たちを どんどん大好きに成ってしまって 「人たちを好きな自分自身に 疲れ果てる」とか(笑)

いろんな人たちを それぞれに知ってゆくと みんなの個性や差異がますます際立って さらに 各人を大好きに成ってゆきます。だから、学校の先生をしていた時期は 大変でした。

学校現場から離れても 休みの日も 頭はちっとも休めてない 生徒たちの顔、姿が想い浮かぶ

アーティストにとってみれば、イメージの現場は脳内世界だから
「脳の筋肉酷使(笑)」みたいな感じ

作品を考えたり創るときの思考集中力もかなりすさまじいと思いますが、
自分の仕事には、ほとんど関係ない事に 集中力が発揮されてしまう場合もあるということ。

先述しましたが、なるべくなら、集中したくない事にまでイメージが展開してゆく。というか。
想像力というのは、自己の都合善い方向世界にばかりは起動展開してくれないです。

自分がめんどくさくなります(笑)

想像力を仕事にしている人らには「これ以上想像したら、帰ってこれなくなって遭難するなぁ」というギリギリの地点がある。
「思考」は重なり連鎖します。考えの考えに捕らわれ脱出できないで遭難死するアーティストも居ます。
さらに云うと、アーティストという職業は「ドーピングあり」ですから、恐ろしいです。世界を視たいがためにです。生還とか無視で「登頂」に目指すみたいな感じ。そして ほとんどが単独ソロ。装備すら無いというか、「無謀行為」。もちろん、その多くが無酸素初登頂。遭難も同じく。

で、そこで、
だから信頼できる人との対話が必要に思う。ザイルパートナーというか。同志というか。それは たんなる世界観の共有ということではなくです。バラバラに生きながら、バラバラにソロ活動を継続しながらです。遠くのクジラ同士。象が呼応するように。小さな象。大きな理想。ちっぽけな一歩。
だから友だちが必要で〜す。
っていうと、まぁ、冒険家の田中幹也さんには「都合良すぎる」とか言われるのだろうな~(笑)。幹也さんは、すごい、ほんとにすごいなー。ちぇ。ぜんぜん知らないのに かなりわかってる。わかってるのに なにも知らない。それでも ぼくらは友だちなのかとかおもうけど。壊れ方が ちょっと わかる。それは、故障(発狂)ではない、「偏向と欠落」の妙。幹也さんの「バランス感覚」の日常更新が ほんとうに素晴らしい。都市感覚で野生に科学してるというか。
山辺剣さんも ぼくはスゴいアーティストだと想ってる。かとうちあきさんも すごいアーティストだ。
みんなみんな スゴいから ぼくは、地平線会議の人に会いたくない。会いたくないけど、すぐに 会いたく成る。勝手に自分は、友だちだとおもってしまってるし。けど、会うと、自己の非力無能に落ち込む。
かといって、現行日本社会に居ても、それはそれで 自己の非力無能に墜ち込む。どこにも「居場所は無い」(笑)。
でも。あー。ゆらゆら ふらふらで てきとーに 無責任に やってて 自分は安全でよかったとおもいます。
◆  ◆
今の日本で「ちゃんと生きる」ことは難しいとつくづく思います。
なにをどうしても矛盾が付きまとう。
人間らしく生きる為の適度な妥協点を見つけねば死んでしまうね(笑)

多分、社会が森の自然界循環から離れるほど矛盾が増すのだと思います。自然の秩序から法律が乖離していると思います。

人は木々。
地下茎を育みたい。
そのためには、土壌を豊かにすること。

社会の土壌は 痩せてはいないか?
思想の土壌は 痩せていないか?

想いの枯渇は なぜだ

本気で身を投じて「遊ぼう!」
森の大地(都市/リアリティの希求・孤独)に だれもがウンコ(作品表現/たとえば触覚の贈与)しよう 実りを享受するために
って だめか