「繕い」仕事は、段取りが決まると、けっこう単純作業が長らく続きます。だから、ひたすら、坦々と根気でマラソンみたいに仕事をすれば、いつかは治ります。それなりに。
だけれども、ぼくは、それを開始し継続する「よし、やろう!」というモチベーションがなかなか起きない。基本的に、怠け者だからです。基本が 成ってない(笑)ということです。
創りたいという気持が体感に来ないと 治せない。治すということは創るということだから。

だから、ここも、自己鼓舞のために、あれやこれやと、くだらないことを考えます。

喪失感や悲しみや落胆や後悔が 自己を制圧していたのでは 治せない。
壊れた作品の破片を並べる ただただ、眺める 考えられる限りのことを想い考える そして 破片をしまう その繰り返しで ときが流れて行きます。
接着することはカンタンだ、だけどそれでは「治らない」「蘇生しない」…この子の治療には、方法や技術とは違う別のことが必用。

自身を責める気持は 創る気力を生まない。
「創る」ということは、どうしたって確実に後ろのことを 前に持ち出すことではない
落ちるときは落ちる 沈むときは沈む 後退を止めることでは創れない。 落ちこむときは 落ちこむ 喪失感を受領しないことには 何も わかったことにならない
っていうか 世界は わからないことだらけなのだけど

「繕い」というのは、芸術というよりも、どちらかというと社会活動に近いことかもしれない。
芸術は、戦争のプロパガンダにも利用される。
芸術に善も悪も無いならば。
修復は愛だと想います。ワルシャワ。壊れた街を元通りにする。前向きな回帰による更新蘇生。歴史をちゃんと「人」が継承して繋げてゆくこと。

自分が治さなければ この子をだれが治すというのか。

ぼくは、世界の物は、世界の存在は、素材や構造が丈夫で頑強だから 後世に残っているんじゃ無いと思っています。鋼鉄で作ってるから壊れないんじゃない。

それらは、物を愛し 世界を愛おしみ 物々と「丁寧に慎重に向き合っている」から 壊れないのだと思います。
ぼくたちは、花びらがやわらかいことを知っている。子どもや老人の体が 強靱で無いことをしっている。だから、老人や病人を急がしたり走らせたりしない。それは、相手を自覚認識して優しく接しているからだと思います。
「知っている」から 対象と向き合うすべを判断できるのだと思います。
愛しているから いつまでも 生きてるんだと思います。愛すことは存在を「知ろうとする」ことだと思います。

人間は、一端壊そうと決めたら、鋼鉄で作ってあろうが、徹底的に破壊してゆく。
そのような破壊力は、あまりに強大であるがために やわらかく壊れやすい人間の飛び散る肉片は意識に見えてこない。崩壊する国家の下敷きになりはてる個々の想いを細々と丁寧に拾い集め情報列挙するようなメディアはただのひとつも無い。
創作という行為は、ことごとく破壊された世界の断片にかすかに残存する染みのようなことに想い寄り添うことから始まるのかもしれない。
人間は、自身が獲得している「人知」を いつ何時なんの為にどう発揮するか。
自らの 弱さ壊れやすさに気づき はかなきことと いかに共生して行けるのだろうか

雨ニモ負ケズ
風ニモ負ケズ
瓦礫ノ山ニ花一輪

それが たとえば 美術作品なのかも知れないです
瓦礫の中に咲く 名も知らぬ花に ひとつ 気づいたひとは 励まされることだろう。かもしれない。
しかし、では、同じ花が いまも街にたくさんふつうに咲いていることに どうして気づくことは できないだろうか?
人間は 都市を廃墟にしてみなければ 「花」のありかを知ることができないのだろうか

八百屋へ行って トマトや桃を手に持ったとき おもわず力が入って 握りつぶしてしまったりしないし。
手の上で包丁で豆腐を切るときも ざっくり手のひらまで切ってしまったりしないし。
赤ん坊を抱くとき 首をへし折ってしまったりしない。

そこで、「トマトの皮をスイカみたいに丈夫にしたらいい」なんて だれもそのような無意味な品種改良を考えないでしょう?
「こんな程度で首が折れるなんて、なんて軟弱な赤ん坊なんだ」なんて 思わないのだし。
車を運転していて 人を避けたり あるいは対向車や壁に激突するのを避けたり…するのも同じようなことだと思います。
それは、『知ってる』からだとおもう。
ところが、山に登っても風景や植生を覚えていなかったり、釣りが大好きでも海や川を知らなかったり、近所にどういう人が住んでるのか知らなかったり…ってことは、だれしもけっこうよく体験していることだと思います。

そういう認知とは 無関係な価値観・意味で 戦争は起こる。

ワルシャワは、すごく偉いとおもう。

いま 都内の街。
たとえば銀座や六本木や新宿や渋谷が崩壊したとして…なんとしても「元通りに復元したい」と心から都民が愛おしく想うような街が具現しているだろうか?
大阪は どうだろうか。
名古屋は どうだろうか。
神戸(阪神)は どうだったろうか?市民は ほんとうの必要を獲得できただろうか?

あ~。大仰です。すいませんです。
書けば書くほど 恥ずかしいです。
画像 341仮組みをしながら 繕いの段取りを考えます。
一気に接着したほうが巧くゆく場合と ゆっくり段階を経て少しずつのほうが善い場合とか。
左の顔の作品は、けっこう重症。欠損部分もある。