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前回も書きましたが、漆と云う素材は、一本の木から100グラム程度しか採集できないです。すごく貴重です。
中国産だから、「純正」(異国の純正)を ぼくのような者も使うことが成せている。「本漆」です。ありがたきことであります。
いちいち「本漆です」と明記せねばならない…っていう 社会性も なんだか、もー ダメだなって思うけど。
大地で木が育って そこから採取される。いかなる量産経緯があろうとも「漆の木」から、此処、「ぼくの工房」へ繋がってるのであります。それだけは 確かなことです。

日本人らは、地球規模の資源(生命)を いただいて生きている。「たいせつ」(恵みの感謝)が繋がってるということ。
このことは、円価値とかフェアトレードとか、そういう話では、解決しない。個々人の「想像力」「観察眼」だとおもいます。
目前の対峙に「想いを飛ばす」。飛行力というか…大仰ですね(笑)。すいません。

ということで、
その日の漆仕事で 余った「漆」は、すべて 使い切ります。

 

筆使いの練習をしたり、蒔絵の練習をしたり。ぼくは、練習は「嫌い」なので、すべてなんらかの『本番』(仕事)に成るように、なるべく創作しています。
たとえば、このように「塗り箸」を創ったりもします。

箸そのもの(原材料)は、市販の安価なものです。
それを 彫刻刀で「自分の想う形」に成型します。(ぼくは、細い木製箸が好きです)。
そして、漆を塗ってゆきます。

 

研磨しながら、漆を塗り重ねます。
こうやって「自分の仕事」は、少しずつ少しずつ形として立ち現れてきます。
塗り箸は、たま~に 売れています。いま、完成品は一膳しか残ってない。想えば、創った箸は、人手に受け取ってもらえてるということだな~。ということは、この仕事経緯は、いちおう「自分の仕事」で、現金収入に成っています。感謝です。
しかし、注文で創るのでは無いので、在庫は無い(笑)。今回、二膳、できます。

 

「自分の仕事」での 当たり前のふつーの自立を具現(表明・表現)してゆくこと。
だけれども、自立するまでに 寿命がオシマイになるかもしれない(笑)。

このように、
作品の対価は、ほとんど、創作家の「考える時間」とか想像力とか手間賃なのだとおもいます。そして、作品を「買う人」自身による その創作家への想いとか。信頼とか信用とか。あと期待とか。

 

冒険家の坪井さんが、「貨幣価値は信用で維持されてる」って 言ってる。
そういうこと。

 

つまり、
「価値」感(評価)は、市民自身が創り育んでゆくことだと いうことだとおもいます。
本気のアーティストたちは、常に 「実社会の現場に さらされている」という自覚で 生きています。たぶん。
「必要」も「観察判断」も 社会人(市民)個々が磨く。もちろん、想いや気づきやらの意見を 日々 語り合いながら、相談しながら。
あの「オガタっていう自称美術家って ほんっと ダメ人間だなー」とかね。「あいつを支援するのは、金輪際 やめよーぜ」とかね。

 

ということで、
ぼくは、作品の価格は、「買い手」の人に委ねることが多いのです。
それは、その人の価値観、その人の社会観・文化観だとおもいます。

 

即金ではとても買えない、そして、ローンにして支払ってくださってるかたも居ます。

ただ、ぼく自身は、
「自分の仕事」(人生・生き方)が、その経緯のどこかで「現金」収入(支援カンパも含めて)を得られないと、ほんとうにキビシイです。創ることよりも、まず「生きなければ」なりません。食わねばなりません。
しかし、美術作品と云う存在は「買ってください」と 言ってはならないものだと 想うのであります。ブティックの店員のように販売するものではないです。
アートということは、生産者側が強制強要することでは無いです。
美術作品が、いまの市民自身の(あるいは社会の)生活環境に必要なのかどうか?
必要ならば、どのような美術作品が 身近にあるのが理想なのか?
それを 判断して決めてゆくのは、それぞれの市民の方々だとおもいます。

彫刻刀(道具創り)についても書こうと想ったのですが、また いつか