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7月24日「にはたづみ」アーティスト・ミーティングにて。おがたの行為。

 

美術の方向性(役割)には さまざまあると思います。
行為の実存(無形ではない創作)が 参画者各人の意識に活きるには。

「拘束」「閉塞」「負荷」「抑圧」…不自由は、発想の起点
特に 即興の現場において マンネリが横行する。これは、即興の性質上、避けることはできないとも思っています。

 

外圧
他者の行為によって 起点現場(現状)を創る
現行社会(意識)に 小さな通気孔を創る実験。
そこでは「ハプニング」の期待についての問いも在るだろうし、合意によって なおすれ違いが生まれることもある。

 

さらに云えるならば、
普段・現実日常における 閉塞抑圧・不自由に気づいてゆくこと。社会に麻痺してはいけない。個々アーティストが日常観察力を養うこと。
現行・現実の背後・繋がりを 予想すること。


もともとは、「即興による創作チーム」のコミュニケーションの通気のために 編み出した作品です(2012)。創作の具現にはタイムラグが無い疎通が必要。そのほうが「個性」が 際立つ。それでも、タイムラグは、存在し続けるのですが。
それを模索工夫実践し続けることによって 「差異」は、違和のままに活きる。

 

もちろん、一方では、
疎通などまったく無くてよい。相互理解は不要。という作品創作の考え方もあるとおもいます。そのような現場は、よりシュールな様相を展開するかもしれない。だけれども、そのときには、あらかじめ「相互理解不要・疎通連携不要」という【了解】が アーティスト同士にある場合が多い。
つまり、そういった現場においても 創作者らは、「理解・疎通」について逆説的に意識せざるを得ないということだとおもいます。
あるいは、演技者が 完全に振り付けられている作品(アドリブは皆無、というか許されない)。

 

「作品」を創る経緯で 同時に「チームを創ってゆく」。
舞台芸術というのは、ある意味では「参画者による総合的な集積創作」だと思います。映画とかもだと思いますが。
その経緯の流れの中で 個々の才能が活きること。オリジナル(個別性)の総合力…というか。その総合が、全体作品の「オリジナル」を育んでゆく ような感じ。
このことは、作品の規模には かんけいなく。

 

そうすることによって、
全体作品(風景)を、どこでもトリミング可能な(有機的な・重層な)舞台が徐々に立ち上がる。それぞれの聴衆・観衆の そのときどきの気持や意志によって。
全体作品の細部や背後を視ると 個性・個人技を視ることができること。大きくも小さくも 視野を広く深く 視ることが可能な作品。
そのようにして創られた作品は、古びない。

再演のたびに
創作現場の経緯において 作品が更新される為の「条件」が 意図に加味されているから。

 

たとえば、
「ハプニング」の到来を 待ってはならないのかどうか。
アーティストの裏切りもある。問いと同意・了解 それでもなお すれ違いもある。誤差や差異の自覚。
観察力を 日常生活においても 身に付けてゆく。

実際社会においても。
一見 無駄とも思えるような「冗長」「ほころび」の流れの経緯から 理解・認知が育まれるのではないだろうか?
誤差・誤解の 楽しみや おかしみ

 

猶予・寛容は 社会(合法性)にあるのか それとも自己の器の範疇か
それぞれのアーティストたちは、あらゆる現場で 可能性を模索してゆく
◆◆◆
舞台作品創作へのモチベーション
自身にも なんらかの負荷(規制)を かけておきます。
・たとえば、使用材料の入手(購入)金額に上限を設ける。(2012年から)一回「300円」に設定。300円以内で 舞台美術を成しえること。これは、100円均一ショップの登場にも由来(関係)しています。
即興稽古の当日に 100円ショップに立ち寄ります。そして、使えそうな物を物色。買い込んで創作現場へ向かいます。
今回のは、ラップ・百円。っていうか、前回に買ったのが 会場に そのままあったのを使用。
なるべく 最小素材(最小経費)で 最大限の効果を生み出すこと
「イメージ」を 工夫する

 

多額な金銭をかけたり 人員多勢導入すれば 大きな衝撃を発生させることが成せるのは 当たり前。

 

インパクトの威力・壮大・派手…などの、そのものが 芸術では無いということだと おもいます。
たとえば 不自由からの 即活の提示と連携
ときどきの臨機対応が恒例化するかというと 必ずしもそうではない
決まりごと(法制化)にせぬままに 社会に育まれてゆくことがらがある
◆◆
善い社会・優れた社会と云うものは、たとえば 電化の行き届いた合理的・自動的な便利楽チンな状態のことでは 決して無いとおもいます。もしかしたら、電気・ガス・水…は、必要分だけ 毎日買いに行くほうが善いのかもしれない。それは、不自由な社会だろうか?それは退行だろうか?
便利が幸せで、不便な暮らしは不幸せだろうか。

 

総電化社会の実現よりも、
国民が 愛し合って 仲良しのくに のほうが きっと 「善い社会」だとおもいます

とか、背後経緯を説明すると 大仰にダラダラになるのだけど…
作品行為そのものはカンタンで 説明は要らない
だから アーティストらは「創作行為」してるんだけど
芸術が生まれたからといって 世の中が たちどころに善くなったりとか そういうことはない

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ピアニスト中村真 ダンサー笠井晴子