画家・藤田嗣治の不遇を考えていました。
当時とくらべて 日本社会は善くなっただろうか?
美術界や画壇は 善くなったのだろうか?
文化は創意継承・工夫更新されているだろうか?
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仕事の休憩時間に
藤田の猫を てきとーに真似して描いて遊びました
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たとえば藤田嗣治は、芸大(当時教授は黒田清輝)でも、日本画壇でも評価されずに。渡仏。
藤田は、フランスで高い評価をされた。
その後、日本に帰国。
戦争画を描いた。
敗戦後、けっきょく、戦争加担責任を ぜんぶ独りで背負わされて国外追放。同じく戦争加担の小磯良平とかは、敗戦後も日本で 画家として生きている。小磯良平は、藤田嗣治よりも優れた芸術作品を どれほど 残しただろうか?
日本は『芸術』ということがわかっていない?。
あるいは、個人に責任を押し付けることによって、責任回避して、けっきょく、自国の社会文化を劣化荒廃させてしまっている。
ならば、そのことは、あるい意味で藤田嗣治という「知の粛清」だと思います。
本来ならば、敗戦後、国家がようやく平和に向かう社会の中で「芸術家」としての藤田が「認められる」はず。その無念は、いまも語られぬままだ。藤田の奥さんも かなり落胆無念だった様子。日本在住の画家と同列に語られることを いっさい拒否していたそうだ。近年、奥さんが所有保管していた資料が芸大に寄贈されたらしいから、隠さず真実を「ちゃんと」公開してほしいとおもう。
誤解が無いように事実を全部公開していただきたいものです。
藤田嗣治に限らず けっきょく 没後に 経済効果利用されるだけ。っていうのは、もう 日本は やめたほうがいいとおもう。
日本は、「裏切りの国家」だと おもいます。
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本来、「芸術家」というものは、自分の生き方を 自分自身で決めてる
「たのまれて芸術家に成った巨匠など、ただの一人も居ない」
ピカソだって ジャコメッティだって シャガールだって ベーコンも バルテュスも…。
まぁ、それは、かつての日本もそうだったとおもいます。長谷川等伯も円空も若沖も…「自分自身で自分の人生を決めて」生きてきた。若沖なんか商家の長男かなんかだったが「画家になりたい」という意志を貫いた。だから研究鍛錬の資金もあったとはおもうけど。
しかし、明治以降 なんだか 低迷荒廃してきたような気がします。
まぁ、田中一村とか橋本平八は がんばったとおもいます。一村は、東京の画壇から追われて 奄美大島にこもって孤高に創った。一村の語る 東山魁夷批判は 的を射て 熱い。
そして、さらに現状は厳しいと思います。現在は、ファインアートも 商業アートになってしまったというか。形骸輸入というか。
そのような気がします。
コンクールとかで「認めてもらう」「許可してもらう」「やらせてもらう」みたいな社会にも成ってしまった。
ちゃんとした「パトロン」も居なくなったとおもう。株主みたいに成ってしまって、アーティスト自身の自由意志(研究分野)は制限されているようにおもいます。
日本の国策も企業も教育も 親も
そして友だちも(笑)
「社会文化」という成り立ちを どのように視座しているのでしょうか。
現行の日本では
「きみに芸術家に成ってほしいなんてだれも頼んでないよ。ははは」って感じ。
「きみが、シャガールだったら売れてるはず。きみが、シャガールじゃ無いから売れない。そういうことが わからないのか?」とか。あるいは「がんばってねー」とか「だれも止めないから、どんどん描いたらいいよ。好きなように創ったらいいよ」。とか。同じ日本社会で 社会人として生きてる人の言葉とは おもえない。
日本で「美術をやってます」とだれかに言うと「すてきな趣味ですね~。ところで、お仕事は何をされてるんですか?」って聞かれます。「毎日美術をやってます」というと「いい身分ですね~。ぼくも絵を描くのが大好きなんですけど、なかなか、絵を描く時間が無いんですよ~。暇があるのは 贅沢ですね~」って言われます。
市役所の窓口では「作品は、いつ売れるのですか?」って 公務側から聴かれるし(笑)。いったい行政の文化社会育成の理念って どうなってるのか?って 耳を疑う。行政側には、善い社会を創っていく意志(熱意)が欠落してる。っていうか、当たり前の「責務」(すなわち公務)が 成されていない。
けっきょく「個人責任」を押し付けてくる社会。好きに生きて好きに絵を描けばいいよ、だけどね「きみは責任取れるのか?」みたいに。現行社会の「企業の中の 社員」のようです。
日本での芸術家は とても難しい。
一方、美術家の側は「自分がやらないで、いったい、他の誰がやるというのだ?」という気概で実社会でやってきている。
現在の日本社会常識との 意識のギャップは大きいのだとおもいます。
いまの日本社会は、個人の自発的・能動的な人生選択を 許さない。
好きなことをやろうとすると 障壁だらけだ。純度が高くなればなるほど 妨害者が立ちはだかる(笑)
まったく 進化更新しようの無い 国なんだな~~って おもう。
『社会』もまた 社会人たちが 「自分」らで 創り育んでゆくのが まっとうだと思います。
ぜんぜん 社会人としての自覚が無い。
なにも、わかってない。そんなに 難しいことでは無いと想うのですが。強力な洗脳の結果だとおもいます。
日本の国民は 国策や企業の言いなりだとおもいます。国民は、やられっぱなしだ。なのに 気づかない。日本人は 被害者意識が無い(加害者意識も抹殺されてると思いますが)。
強引に一方的に生活環境をつくられていちゃダメだとおもう。自分で「創る」っていうことが 人間の喜びだとおもう。自身に観察と判断の「自覚」があること。
与えられるのを待ってるだけじゃあ 後手後手だとおもう。必要を国策から与えられるのを待つのでは無く、「必要」は市民の側にあるのが健全・自然だとおもいます。
国民は「福祉は自分で盗りに行く!」(笑)くらいの気概で。
画家バルテュスなんか、自分勝手まっしぐら。非合法無許可越境連続。
彼の友だちも バタイユやアルトーみたいなやつらだしね。どんな論も転覆真逆できる手品師みたいなアルトーなんだし。ぼく的には「反対の反対は賛成~」って言う 赤塚不二夫のほうがスゴイ!っておもうけど。
だから、日本のアーティストらは、素晴らしきライダー賀曽利さんの 無許可越境みたいな感じで 生きなければ ダメだとおもいます。日本で、だれかに許可をうかがうと、たいがいのことは「ダメ」「待った」ってことになる。好き勝手生きるなんて とんでもない。「まずは バイトニュースを買うなり ハローワークへ出向くとか そこからが 芸術家への 一歩ですよ」と 真顔で指導する美術教師も 居るかもしれない(笑)。「まず、自分で金銭を稼いで、画材を買うことから始めましょう」とかさ、「大人になりなさい」とか。
バルテュスは、生涯「子ども」だった。
バルテュスは、好きな女の人たちと ずっと一緒に居たかった。それが 彼の至福。まっすぐに 好きなこと やりたいことを やり続けた。わがままを 純粋に 貫いた。
それぞれの人たちが、それぞれにちゃんと「自分のやりたいこと(やるべきこと)」を 自身で見つけて それに向き合ってゆけばいいとおもいます。
それを ちゃんと 態度姿勢を 実現してゆこうとすること。もがく・あがくだっていいとおもう。その途上に歩んでること。飾られたゴールなんか無い。
社会全体のほうが「極論方向へ暴走」してしまっている現在…、まともに「ちゃんと」生きようと実践してゆくことのほうが希少で至難。地道な少数意見(正論)のほうが 逆に極論だと批判されてしまう。
大海の荒波に飲まれるようだ。地を泳ぐのは なかなか難しい。『地を泳ぐ』というのは、画家・藤田嗣治の著作のタイトルです。
『日本』
こんな国で「認められた」ときは オシマイ。
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自己鼓舞のために 書きました
いつも 大仰で ほんとうに すいません
書いていて すごく 恥ずかしいです
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