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お世話になっている窯場(46作品を焼成していただきます)の教室展覧会へ行ってきました。
29回という歴史があります。
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ぼくは 自称美術家「彫刻家」なので、器作品や絵付け作品よりも まず立体造形作品に目が行きます。
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美術ということは 技法や技術や技巧ではないことを痛感します(これは器作品についてもですが)。
これらの動物作品たちは、この創作に必要な技術・技法だけで まさに まっとうされている。つまり、「技術」は、創作目標を超えることも無く、作品の誕生に同行している。

え~と、「必要な技術・技法・技巧だけで 作られている」ということ。これは、なかなか 成せないこと。

ちょっと、余裕で あれこれ「オマケ」というか、「トッピングを変える」とか、そういうたぐいの軽薄な工夫は いっさいしていない。いわゆる「自分はデキル」みたいなところを 出してない。テクニカルな意味での「いいかっこ」をしていない。人に見せるための「サービス」のようなことを先行させていない。
社会的なアイロニーのような事も添加されていない。故意の主張の無いなかでの「作品としての生命観」。媚びていない。
ぼくが これを 「真似して」、たとえそっくりに創れたとしても、それは「創作」では無い。パイオニアワークでは無い。オマージュだ。
同時に、その行為の過程で、ぼくは、「この作品」を創る以外の技術・技法・技巧を封印しなくてはならない。もしも、完全に制御できたとしても、その時点で 彼の持つ技術・技法を ぼくが超えることができるだろうか??
それは、おそらく 模倣でしかないだろう。
彼のアシスタントには成れるかもしれないが、ぼくは、「彼」そのものには成れない。
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作者は、かなり純粋に楽しんでる。だから、純度の高い おかしみがある。ムンク的な おもしろさというか。シンプルでありながら飽きない。
ぼくは、想うんだけども、芸術家に成りたいのであれば、ギリシャ・ローマ彫刻の模刻とかせずに、こういう作品から学んだほうがよいような気がしてならない。というか、それぞれの美術家が、ここから学びたいと感じたところから学ぶようにすればいいと思う。アーティスト自身が、自身の状況下での先生を発見するというか…。うまく言えてないと思いますが。

現代の美術教育は、技術・技法・技巧や道具の使い方を習得する過程で、もっとも大切な基本の気持(魂のようなもの)を どんどん 落としてるような気がする。魂や愛情を犠牲にして 超絶技巧を身に付けても あまり意味・価値が無いように思います。それは、国策や企業や教育や社会とか…あらゆることに 同じだと思います。合理や利便だけでは 善い社会は創り育めないということ。芸術も。

いろいろ感じながら 写真をとりまくった。
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先生が 会場に居たので。「この作品の作者は 今日来てますか。会場にいらっしゃるなら、ぜひ お話を聞いてみたい」と伝えました。今日は来てないとのこと。そして、作者は、障害のある人で、三歳から陶芸をやってる。いまは、36歳だとか。
かつては「もっとスゴイ」作品を創っていたというから 恐るべしであります。作品背景の物語やネーミングも周到だったらしい。陶の立体造形暦33年だから、もしかしたら、キャリアも ぼくより長いんじゃないのでしょうか?
以前、信楽で陶板絵画のバイトをしていたころに 近所の障害者施設の作品を見に行った。陶彫家・八木一夫さんの居た施設の展示販売所。そのときも、ぼくは、けっこう「ヤラレタ」感があって、落ち込んだ。寝込みはしなかったが。思わず作品も買ってしまった。
そういう経緯もあって、ねこさん(地平線会議の)の勤める施設で、なにか参画できないものかとおもったわけです。
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えーと、彼の作品の 素晴らしさというのは。
老齢の方の作品の中にもよいのがありましたが、老齢に成って「欲が無くなる」「業が昇華される」とか、そういう必然から生まれる造形ではない。老齢のかたがたの善さ 素晴らしさ というのは、それは それでわかる。それは、絵画や造形についてのみならずです。善い意味で「枯れてる」感じ「脂が抜けた」感じ…っていうか。
彼の善さは、それではない。
そして、『芸術』ということも 同じく 枯れだけでは 生き得ない。と ぼくは 想っています。
だから、彼の作品の中に 芸術の要素というか息吹のような片鱗を感じました。たぶん。
センス・感性のようなこと。頭のいい現代アーティストたちが周到な「コツ」で 大衆をだまくらかすのじゃなくって。そのことを 否定しているのではないです。ほとんどのアーティストは「コツ」系で練磨工夫努力するしか無いと想うから(たぶん、ぼくも)。

そうでない人たちは、たぶん、とっくに 気が狂うか 死んでるとおもう。ちょっと「創作」について また考えていました。
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老齢について 少しフォローしておきます。
木彫家の巨匠・平櫛田中は、百歳のときに 30年分の彫刻材料(木材)を仕入れました。血気盛ん、ぜんぜん 枯れて無いです。スゴイ! 100歳で現役彫刻家。どーなってんだっておもう。サイボーグか 宇宙人か…みたいな感じ。
あんまり フォローになってないか…(笑)。
っていうか、だから『芸術家』である「何か」が あるんやと おもいます。ぼくは、その「何か」を 知らないけれども…。
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言葉についてですが。
「成長・発達障害」という言葉そのものも イマイチぼく的には 疑問です。妥当な言葉では無いと想う。社会に活きるような言葉にしたら善いと思う。この言い方では マイナス要因のようだ。ダメな人みたいに聴こえてしまう。
ここでは、ぼくは、そのまま使っているけど。

どうなのだろう
単独生活だったら 死んでしまうような状況(社会状況)を 「人間」は 同胞として どのように感じて どう対応するのだろうか。それを考えるために健常者の「脳」が 活性するのではないのだろうか。学び得ることのほうが 多大だとおもいます。
社会状況というのは、「人間」という生き物が生きるための環境のことだとおもいます。環境(つまり社会)が人為的なものであるならば、人間はその環境に責任を持たねばならないと思います。
少なくとも アーティストたちは、知的障害者(う~ん、やっぱり、使っていてしっくりこない言葉です)から学ぶことは多い。
老人からも 重篤な病人からも学ぶことは多い。貧乏人から学ぶことも多い。実際の風景から排除されるもの、棄てられるものから 学ぶことも多い。
気づいて変わらねばならないのは 自分自身であり 市民の側から変えてゆく。そのような 想いがあります。
現行社会で 云われる「知恵」というのは、ほとんどが『金儲け』の方法ばかり。
しかし、実際に ほんとうに社会や人々のためになる知恵ということは、金儲けのことではないとおもいます。
愛情や魂を伝えてゆく知恵を 失ってしまってはならないとおもいます。
だから、文字を持たず 必ず 人と人が対峙して 口頭で 物語を継承していた。たぶん。
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対話すること 無かったことにしないこと 居ないことにしない
「対象」との距離を なるべく 広げないこと
距離を 近接にすること つながりを 自覚すること
う~~ん。そんなことを 考えていました。
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知的障害の人たちは、ある意味で 辺境の住人、「行ったきりの 冒険家」のようでも あります。不謹慎な 表現かもですが。それを すばらしいとか偉大だとか 言えない社会があるし。現行社会が 問題の根本を理解・受容しきれていない。
また、目前の現象・事象の気づきを「問題」としてのみ捉えている限り 本質・真理へは たどり着けないような気もします。
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今のところ。
日本国策や教育は。
彼らを現行社会の枠に合わせようとしている。
彼らを変えようとするのは 奇妙だ。こちらが 変わらねばならない。こちらが、もっと才能を磨き発揮しないといけない。
その「想像的・創造的」工夫の流れの中で 「同行・同伴」社会を 模索実践してゆくことが できるのではないか
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現行のままで、こちらが どれほど熱心に「対等」を主張して歩み寄ったとしても、社会現実に公平も平等も実現し得ていないのだから、それは(そのような善意や良心は)、アンフェアだとおもう。
それは、重篤な難病や 福祉からの孤立…あらゆる困窮・困難についても。
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ぼくは、感性がイマイチなので、あーだこーだ なんだか、いつも考えないと 創作できないです。
感覚的に作品を創れない。踏ん切りがわるいです。
むしろ「創らないでいいなら、創らないほうが 社会のためではないのか」とすら おもうことがあります(笑)
彫刻をガンガン創れば 仕事場が作品に埋もれてくるし。生活空間が どんどん 無くなって来る。
まぁ、「創る」と成って激しく創り出すと そういうことを気にする暇もなくなってしまうわけですが。勝手なものです。頭が悪いだけです。

「創る」ということや「世界」のことを 考えてると 眠れなくなることが よくあります。
ぜんぜん 世界旅とか したことがないのに(笑)

想像というのは、必ずしも ポジティブとか びうてふる 快楽 な方向へ展開するばかりではないです。
人間の想像力というのは、ネガティブにも 醜悪にも 絶望へも…同じく 縦横無尽に 解き放たれている。
だから 困る(笑)
想像力というのは、立体的であり 多層次元的であり。そのコントロールが 難しい。宇宙の彼方まで。
それでも 想像は なにも 及ばない
世界の なにも ほとんど 知らないまま ぼくは死んでいく そのことだけは わかってる
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息を 思い切り吸い込んで
息を止めて
自身の想いの深淵へ ダイブする
体内酸素ギリギリの 深海で 手を底に伸ばし 手にする
握り締めた 「何か」を ぜったいに 手放さないように
浮上する ひたすら 浮上する 上空には 大気がある ぼくは海中を飛ぶ鳥だ
大気への帰還
今 此処への生還の喜び
そして 手中を 楽しみに ひろげる
それが ぼくだけの 「何か」だ
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そのように 美術家は 生きている喜び以上の「何か」を 垣間見るチャンス(可能性)を 生きている
ぜいたくなことかもしれない
だけれども 自分の内部への 潜行は ある人にとっては 危険を伴う。たぶん。
アーティストは、基本的にソロだ。単独行。個別。
それでも たとえば 友情が有る。「想い」のザイルパートナーが居る アーティストは 幸せだと思います。それは、同じ分野では無くてもいい。ぜんぜん アートとは違う世界を生きてるほんとうにふつうのひとと見えないザイルが繋がってること。その ありがたさ。感謝は 言葉にできないと おもいます。
ぼくは、芸術家ではないので、そこらへんの 詳しいことは わからないけど。
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