長野亮之介さんは、自分の作品を「感じる」の連続で創ってるという。すごく 自然だ
ぼくは、考えてしまう。感性が鈍い。ぼくは感覚的な創作ができない
脳裏に イメージした風景しか 具現化できない。頭に 想ったことを 素描してるだけ
ひらめくのではない。考えることによって イメージも ことばも 降りてくる

「感じる」というのは、鳥が飛ぶことに似ている
鳥は飛ぶときに いちいち 羽根を動かすことを あれこれ考えないと思う
「飛ぶことを」真剣に考えてたら 世界中の鳥たちは ぜんぶ 墜落してしまうと 思う

ぼくは いつも 飛びたかった。
だから 「とりのとぶたかさ」という 展覧会を開催しました
飛んでいる鳥の 視点での 滞空スケール感 それが「建物彫刻」

鳥は 飛ぶときに考えないだろう
考えてから羽根を動かしたのでは遅い
全身が飛んでいる タイムラグの無い意識

かんがえずにとぶこと は 創ることに似ている

空がある 鳥は飛ぶ
鳥が飛ぶとき 空はある

鳥が空中に静止するときも 鳥は完璧に飛んでいる
かんがえずにとぶ ということは 感じる連続ということ
感性の連携 とまらない
「感じる」が 連鎖する

長野さんは 感性と手が 直結している
だから 芸術家は 鳥のように 飛んでいる
だから 長野さんの 作品は 人々の 空になることのできる

ぼくは 理想を語るようなことしかできなかった

「こうだったらいいな」 みたいな そういう 想い
想いが足りない イメージが未熟貧困なのだ
意識の風景に 歩み入る
自身の体内に ダイブする

言葉は、追いつかない
降りてくる言葉に 追いつかれてはいけない イメージで逃げ切る

残念ながら それは 現実では無い
ぼくは 感性で 創っていない
「かんがえずに 創れたらいいな」「感じるままに 生きれたらいいな」
そういう 考えが イメージになって それを 素描しているだけ
そういう 残念が 本来の 自分

だから 「だれがみても おもしろいと感じるような作品」を 考えて イメージするなんてことが できない自分が とても 残念です

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