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それぞれの美術家の行く精神世界は、いくつも多様にある。
たぶん、それらは 山岳のようであったり、ジャングルの奥地であったりするし、宇宙であったりする。
たとえば、山岳の場合は、自身の登るイメージの山が脳内にいくつかあって、それも、四方いろいろから登頂する(あるいは縦走する)、いろいろな稜線を行ったり沢スジをいったり薮を行ったりする。その経緯で新作が生まれる。
そのように、ピーク(到達目標点)がある旅は、楽なほうだとおもいます。
たとえば、精神の「抑鬱への旅」は、フラットな旅。飾られたゴールが無い。どこを結果(目標)とするのかという地点が無い。それは、上昇志向では無いからかもしれない。
「仮説」を設定する場合もありますが、目的地を狙って達成するという旅ではない。常に「まだか」、「どこだ」みたいな不安な感じ。いつも、現行社会常識からの疎外感や徒労感を伴う。
だから、あるときは心身が危険に成るような妄想。
なぜ、美術家は、いや~~な辺境 わざわざ抑鬱の世界を放浪徘徊せねばならないのか?
自虐我慢大会なのか?
それは、我慢大会ならば、なぜ「肉屋の冷凍庫ではダメなのか?」を 冒険家の田中幹也氏に問うようなもの(笑)かもしれない。
『愚の国』の名峰「骨岳」の頂を目指す。
しかし、名峰「骨」岳には「頂」が無いのだった(笑)。
想像/創造の素材ということは、画材のことではなくて、本人以外のだれも決して登る事も観る事すらできない、自身の体内にしか存在しない山のこと。
体内を基発とした創作というものは、自分自身がやらなければ 歴史上 だれもやらないこと。
作品というものは、だれも共有することが不可能な世界から素描してくる記号。
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既存の概念(記号)をバラバラに解体して 複雑にあるいは簡略に組み合わせて再構成するということではない。もちろん、「技法」としては、それでもいいのだけども。ザッピングのように(サンプリングあんどリミックスみたいなこと)。
それにしても、体内に自身の世界が無ければ 作品は 立ち上がらない。
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内部から湧き上がり出てくるものであり、
外部からの模倣では無い。
作品は イメージの産物。
ぼくが、脳内に想像して現実界に創造するまで、この地球上のどこにも存在しなかった記号。
あるいは、「存在の気づき」。
國分功一郎さん風にいうと「情動の感情化」の一端かもしれない。
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自己を探査し 発見する度に解体して行く。再構築。そして、解体。誤読/誤解。言葉の奪回。
カテゴライズの回避。
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