2014-11-12 16.58.42

灯油ストーブを出してきて、扇風機をしまおうというところ。
どちらも 仲間からのもらいものです

ぼくの家の家具や電化製品は、「もらった物か、拾った物か、買ってもらったものか、創った物が ほとんどだよ」と言うと、「みっともない」とか恥ずかしいとかいう人がたまに居ます。自分で稼いで 買うべきだということ。

そういう人たちのほうが、ぼく的には「みっともない」と思う。

もらったり、拾ったり、創るということは、倹約節約に直結すると思います。社会に廃棄物を放出しないことにも直結する。環境保全に成るし、過剰生産/大量廃棄を緩和すると思う。資源の無駄もなくなる。
友愛によって贈与社会が育まれてゆく。「友愛」は、節電よりもずっと有効な倹約節約を生み続けると思います。

ただし、最近は拾った物が少ないです。最近は、物が落ちていないからです。これも、怖いことだと思います。持ち主の手から直接廃棄されて実社会へゴミとして放出されているということ。

ものは、活きる場へと移行してゆくのがよいとおもいます。美術作品も金銭も同じくだとおもいます。
経済活性の為に 破壊廃棄新造していたのでは、本末転倒だと思う。結局、さらなる経済閉塞を誘発してしまう。「不経済」によって経済を推進してゆくというような、悪循環だとおもいます。

現存を「いかに活かすか」が、人間が知恵を発揮するところだと思います。
お互いが、何が不足していて何が必要なのかを 向き合って語り合って相談・工夫できるような社会が善いとおもいます。
有るものについては、分かち合えばいいと思います。必要だけれども無いことがらについては、仲間で工夫して創り育んでゆくしかない。創りが成すまでは、みんなで励まし合い しのぎあって暮らしてゆく。そうやって社会は少しずつ更新され年月をかけて成熟してゆくのだとおもいます。

金銭を稼いで「買い物」で済ませている限り、社会は善く成らないとおもいます。
手間隙を惜しむような社会では、商品が劣化する。どれほど金銭を支払ったとしても、善いものが市場に無いように成ってしまった。これから、ますます社会は劣化荒廃する。創作・創造を現職としてる自分としては、現行国策状況に責任を感じます。
いくら雇用を増やしても、その雇用が、社会や人の為にならないのならば、逆効果だとおもうし。

美術作品は、考える時間が大切。もちろんアーティストにもよるけど、ぼくは、考える時間がもっとほしいです。しかし、当然のことながら、「考える」ということそのものには、現行の日本社会では対価は発生しにくいです。
ですから、自力自発で手作りで 社会に善いものを提示してゆく ということは けっこう難しいことだとおもいます。こういうことも、自分から言わないほうがよい社会性でしょう(笑)。「好きな事をやって生きれてるんだからいいじゃないか」って一笑されます。
しかしながら、
たんなる自己実現では無くて、社会に実際的に有用である具現を成していてこそ「仕事」を成したと初めて言えるとおもいます。規模の大きさでは無くて、たとえ小さくてもです。歌手だと云うのであれば、たとえ声量が無くとも、嵐の中でもささやくような声で歌い続けること。歌(仕事)と人を愛している事。そのような歌は きっと、だれかが聴いている。

作品は、ここに在る。しかし、発表や提示の機会はなかなか無いです。だれも、此処で美術家が創作してることを知らないし。
創作という仕事そのものは、プラットホーム(市場)に乗るということとは、ぜんぜん違うことだと思います。たとえば、セルフプロデュース能力ということは創作家の仕事とは、まったく関係ないとおもいます。美術家は「クラウドファウンディング」みたいなことはやらないと思います。まず「創作」について思考するとおもいます。
だからこそ、プロデューサーという想像的/創造的な仕事が実社会に活きるのだと思います。マネージメントについてもしかりだと思います。

「友愛」という言葉も 恥ずかしい言葉を使うなとか「チャラいよ」とか言われることがあります。いまどき愛などと口にするなということだそうです。
では、なんということばを用いれば適切なのでしょうか?

やっぱり 「愛」としか言いようがないと ぼくは思います。
言葉にすると、目減りするようなことなのでしょうか?