2015-02-24 01.35.05

 


ぼく自身は、「自己のネガティブを探査することは ポジティブな作業」だとおもっています。
その経緯で 自己嫌悪、自己不審、自己否定に陥りますが、探検してゆかねばならないとおもいます。抑鬱は、社会常識や教育などとの身体的抵抗から生まれているのかもしれない。ならば、自己の体の声を聴いてみよう。そして、外圧についても試行錯誤/格闘してゆかねばならないとおもいます。

社会のネガティブを救済するのは決してユートピアでは無いとおもいます。
実存するネガティブから目を背けて ポジティブを植え付ければよいというものでもないとおもいます。
さらには、抑鬱やネガティブの無視回避麻痺忘却のことをポジティブと言っているのでは、真のポジティブとか前向きや克己やらは生まれ得ないと思います。ポジティブは、ネガティブの免罪符ではないとおもいます。

 

ネガティブは底なしだと想います。「ダメ」にはキリが無いとおもいます。自身の人生体験上、何ヶ月でも何年間でも、下降し続けるとおもう。
なので、ぼくは、仮に底を設けてみようとおもいました。底というか領域というか。その場所に自己をポジションしてゆきます。下方からネガティブを観察する感じです。言い方を変えると、たとえば気持ちの落ち込みに「先回りする」イメージです。凹む自己を「待ち受ける」っていうか(笑)。

「抑鬱の真相を知りたい」という気持ちが、ぼくにはあります。抑鬱は、自己責任か?あるいは、抑鬱は「イケナイことなのか?」。抑鬱を持つ人間は、「悪い人なのか?」。ネガティブな人間は、社会に生きていてはいけないのか?
外圧は無いか?

オガティブのモットーは「不屈よりも卑屈 飛翔よりも卑小」(笑)

オガティブという領域は、ネガティブと奈落の板挟みの位置にあるということ。つまり、上と下から「飲み込まれる」可能性があるということ。スリリングな空間である(笑)
けっこう しんどい作業です。「やりたくない」。でも、やらねばならない 性格。賃労働の真逆をやるような連日、すごい無駄な時間だとおもいます。だれもが「徒労」だと おもうかもしれない。

オガティヴ経緯で解っている自分は、たとえば。
カンタンな「正直な自己紹介」してみましょう

ぼくという人間は、
幼稚で貧乏で コミュニケーション能力が欠如している
頭が悪い変態 無知無能  非力
しかも、アル中
さらには卑屈
怠惰軟弱

観察し続けると 差別的で 恨みがましい人間 偽善的

これが ネガティブな自己紹介であるのかどうか?
むしろ、此処からではないのだろうか? いつも。日々が。
自己卑下は ダメなことか?
あるいは、自己憐憫の吐露は 禁止か?

抑鬱の発露の具現をイメージする さまざまな人格や社会的立場を想像してみる。想像を接近し自己を重ねて行く。シミュレーション。これが、また、怖いです。リアルに想像せねばならない苦痛を伴います。しかし、未来(現実)には あらゆる可能性がある。人間には、どのような外圧が かかるかわからない。
先生も親も「悪い事を考えてはいけない」と言う。しかし、妄想を禁止してもよいのか?危険思想が危険なのか?
ならば、正義については どうか?
戦争のただなかで たった一人で「戦争反対」をアピールできる人は希有だろう。ぼくには、できないとおもう。
ならば、「今」できることを模索したい。『今なら 間に合う』かもしれない。今なら、相互理解/疎通連携で 人々は、仲間は、協力しあえるとおもう。市民は、活路を見出し、社会は 新規に生き返ってゆくかもしれない。まったく 新しい概念が育まれて行く。感性で認識するそれは概念としては把握できないかもしれない。
だれもが 愛し合うようになれば 愛はタイムラグの無い常識となって体内外に同化して 愛ということばは消滅するとおもう。ならば、戦争を当たり前の平常にしてはならないとおもう。

今だから 想像し創造できるのではないか。せねばならないのではないか。
にんげんに「必要な作品」は、なにか?

美術家に限らず、創作家は、いろいろなことを想像しなくてはならないとおもいます。とても苦痛なのは「想像したくないこと」も想像しなくてはならない。ということ。それができなければ、作品は創れないとおもいます。それは、「生みの苦しみ」だから、逃れる事はできない。しかし、とても辛い。「めんどくさい」とか「やっかい」という程度ならまだいいのだけれども、逃げ出したくなるとか 恐怖心のような 辛さがあります。でも、楽しい事ばかり考えて向き合っていたのでは、決して作品は創れないと思う。だから、「想像の苦痛」は、しょうがない。職業上の宿命なのだとおもいます。そこを無視して 無関心のまま無視放置したままでは、作品にリアリティが欠落してゆく。これは、具象であろうが、ファンタジーであろうが、同じくだとおもいます。

ほんとうに、いろいろなことを考えなくては成らない。それにともなう自己乖離や分裂の不安。
それらの思考(取材)のほとんどは、実際の作品には、直接に表出しないこと。
こういう想像の期間は、しんどいからイヤです。逃げたく成ります。でも、自分で考えるしかないし。頭は一個しかないし。だれかの頭が考えてるところへ 後追いするのじゃないし。
そのうえ、どれほど、深く侵入して旅をしたからといって、いい作品が立ち上がるかどうかの確約は無いし。直感みたいなのを信じて、踏み込むしかない。

ぼくは、「自身との和解」のためには、自分を知るしかないとおもいます。
男も女も自己のネガティブへの旅をやってみたらいいとおもいます。そんな暇は無いのが日本人なのだろうけど。
国家や企業にも 国策や自社のネガティブを探査してほしいとすら おもいます。

日本社会では、美術家として生き続けてるだけでも とても大変なのです。
だけれども、ぼくのように うだうだノロノロと美術(仕事)のことばかりを考えて生きていると

まず、貧乏人が嫌いな人は、離れて行きます。
めんどくさいのが嫌いな人は 離れてゆきます

卑屈が嫌い ネガティブが嫌い 泣き言が嫌い 女々しいヤツは嫌い という人が離れて行きます。
理屈っぽいのが嫌いという人が離れて行きます。

しかしながら、それらのことは、だれもが自分自身の体内に持っている内実なのではないでしょうか?

友だちからの言葉は、
「美術家なんか さっさとやめて バイトしろ」というアドバイスが もっとも多かったです。つぎには「お前に美術家に成ってくれなんて、だれも頼んでない」とかです。だけれども、頼まれて芸術家に成ったアーティストは、歴史上なかなか居ないとおもいます。

しかし、
さいきんは、「だからこそ 支援したい」という人たちが、ぼくの周りには増えて来ています。作品もようやくポツポツと売れるようになってきています。社会や文化に関心のある人たちが、少しずつ集まってきています。
ここまで来るのに30年近くかかりました。急がば回れ 一歩一歩 コツコツ。っていうか ぼくの場合は、ダラダラ のらりくらり ウダウダ 鬱鬱 ですけど。
最近に成って、美術(仕事)をやめなくて よかったとおもえます。

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