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この子たちは、まだ長期入院です。
治療開始初期です。

 

左の顔の作品は、徐々に接着くみたてをすることに成りました。右の壷蓋は、一気に組むことができました。
このまま、一ヶ月ほど 安静です。それから、次の治療。

器を治すことは、小さなワルシャワ。…のつもり。
此処から日本を創ってゆく。と 大仰に想いながら 坦々と続ける。

 

やっぱり、ぼくは、幼稚なのだとおもいます。
どうして歳をとってしまったのだろうか。小学校二年生のままだったらよかったのに。とか、想ってもしょーがないのだけれど。大きくなると食べ物もたくさん食べなくっちゃならないし、体も重い。そもそも、なんでもかんでも「大人料金」に成ってしまう。そこは、精神年齢に対応合致させるべきだとおもう。ちゃんと、頭の中も大人に成ったひとが、大人料金を支払ったらいい。
っていう風なことを言うと 「子どもだな~」みたいに言われて笑われるのだから、だから、「子どもだ」って、ちゃんと「自己申告しているではないか」というと、「幼稚だ。はなしにならん」とか言われてしまうし。困った 社会です(笑)。

 

だけれども、
今回、「46第一回」で、ぼくは、「ぐいのみ」を創った。みなさんが、それぞれに それぞれのぐいのみを手にしてくださいました。
そのことによって、みなさんは、それぞれに「美味しい 日本酒を飲みたくなった」。それは、ぐいのみの誕生によって、少しだけ、ほんのちょっとだけ「日本のようなもの」を想い 奪回したことにはなりはすまいか?
それもまた、ほんのちょっとだけ「ワルシャワした」ってことではないのだろーか?
全国の30箇所で、ちょっとワルシャワにほん。

 

うまく言えないけど。
個人に成せる人力で。小さなところから 成せる範疇で仕事(創作具現)してゆく。
ぼくには、江戸城は創れない。日本家屋や 日本庭園は 創れない。床の間ひとつ つくれはしない。せいぜい、器とか漆箸とか…床の間彫刻です(「床の間彫刻」については、また、別に書こうとおもっています)。
けど、漆箸を手にするとき なんとなく「和食」を 口にしたいと想うかもしれない。細い箸がいい。あまり大きな食べ物とか持ち上げることができない意匠の箸。そうすることによって、盛り付けは、繊細になってゆくとおもいます。一口に おさまるような調理と 盛り付け。そこには、優しい器と共に。
そういうところから、徐々に 暮らし(感じ方や日常)が変化してゆくのではないだろうか?

 

極端に言うなら、
畳や襖や欄間や屏風や屋根瓦を創って、友だちに贈っても 同じ意味なのだけれども。つまり、手に入れた 畳一枚から和建築が成されてゆくかも知れない。だけれども、いきなり、襖や畳をプレゼントされても困るでしょう?
「ぉお!すばらしい畳。さっそく、和室を創ろう」なんて 想わないでしょー
だから、受け取った側も 「個人の想像の範疇で旅(想い)が成せる」というような範囲内の 作品でないと いけない。
祭りの復興も ひとりではできない。だから、まぁ、「ぐいのみ」から。夏は浴衣を着て 近所へ買い物へ歩くところからとか。楽しみながら 少しやってみる。それを 更新しながら おかしみながら 重ねてゆく。

 

たった独りでは、できないことがたくさんある。だけれども、ほんとーは、あーだったらいいな こうしたらおもしろいな とか想いをめぐらすことは自由だとおもう。
そのような想いも 何人かで 語らってゆくうちに きっと少しずつ具現してゆくのだとおもう。年月はかかる。だけれども、身近な小さな具現を ひとつひとつ活かしてゆくこと。それを 参画者全員で 実体験として証明してゆくことが、46の旅路です。
って、また、大仰ですが。

漆の固化の速度は、速めることはできないです。ですから、どうしたって、ぼくは、「漆の時間」に合わせて仕事をするしかないです。
と自己に言い聞かせても やっぱり失敗はある。そして、漆工程の失敗は、毎度全てが「ぼく自身のミス」です。
個人で引きこもって仕事をするのは、いろいろ制限もあって、閉塞しがちですが、それでも、そこに「何か 善いこと」が無いものかと考えてゆきます。自身が居る状況(現場)に なにかのメリットを探してゆきます。
たとえば、素材や工程(仕事)-がシンプルだと「自分自身で反省できる」ということが、メリットだとおもいます。自分自身で今後をどうするかを考察工夫する余地猶予があるということ。上司や議会に提案相談するまでもなく、ぼくは、企画の基点へ立ち返り「再スタート」できる権限者(責任者)であるということ。っていうか、行動の「本人」であり続けること。

 

ぁあ…、書いていて 落ち込みますが。
まったく 幼稚無知無能非力。ガックシであります。

夏8月。今、野宿仲間は、みーんな 「青森ねぶた」へ行ってるね~ い~な~。
ぼくは、「海の中を見たい」です。ほんの数十センチの浅い海中でいい。水深数十センチでも すごく美しい。いろんな生き物が居る。生き物は、小さな彫刻のよう。風景も美しい。箱庭のよう。うっとりする。美しすぎて ゴーグルの中で泣きそうになる(笑)。
もう、何年も 海の中を 見ることを成せていない。あー。我慢。今年もたぶん無理だろー。
海の近くに住んでいる同志たちに 手紙を描こう。「羨ましい 羨ましい」と描いて いじめよー。

 

地平線「あしびなー」のときに視た海の中は すばらしかった。浜比嘉とか、座間味とか。テント張って。
シュノーケリングで 魚にソーセージを贈与して 生命をもて遊ぶ「わたしは神だ」(笑)。同じソーセージで釣って 魚を食べる「わたしは悪魔だ」。素人にも カンタンに釣れる うひゃひゃ 楽しかった。
座間味の遊び方は、鷹匠の松原さんから詳しく聴きました。座間味のさんご礁の岩場から電話した、ケータイって すごいなーって思った。いいのか そういう 便利製品の 使い方って?
そういうケータイの使い方が悪なのであれば、その罪悪を ぼくは、これからの「創作実践」で 実社会へ活かしてゆかねばならないです。
ぁあ… めんどくさいな~ 「ちゃんと」生きるって実践は~(笑)。