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現在、三井記念美術館で開催中の展覧会(明治期の日本工芸芸術)を見に行って ほんとうに疲れて しばらくメールも何もできませんでした。帰宅してから、考え込んでいました。
あまりに「素晴らしい内容」でした。
ぼくは、会場でへたり込んで 立ち上がれなく成ってしまいました。ほんとうにショックで。
しばらく会場で座って 休んでから ようやく帰路につくことが成せました。
現在日本の工芸のレベルは、著しく低下しているのではないだろうか。現行の「トップレベルが低下」してると痛感しました。
さまざまな事情が背後にはあるだろう。献上のありかたが変化したからだとも言えると想う。武家献上では無く、金持ちへ(金儲け)の搾取奉仕奴隷社会に成ってしまった。創作家は、商売(利潤効率)の手先になってしまった。とか。それだけではないけど。
明治以降の衰退荒廃が とにもかくにも ひどすぎるとおもいました。

 

展示作品を手に持って見たかったです。もちろん、希少すぎて触ることも禁止ですが(笑)。
美術家としては、本物現物を 間近に見れただけでも 御の字です。

 

クラフトが、あたりまえのように『芸術作品』と成っていました(選りすぐりが集結してるのですけど)。
だれか一人の人生だけでは、この一点一点の世界にに到達し得ない。すごい人数の創作家と支援者が背後に居る気配。それでいて、個々の作品には、強い個別性(作品としての独立した息吹)が活きてる。

 

現在社会は、芸術だけではなくて「何もかもが空っぽ」に陥ってるとおもいます。
あのまま(明治以降も)、日本は、創作探求練磨を地道に続けていれば、いまごろは、西洋の追従を許さない文化国家に成っていた。
「冗長やほころび」は、さらに社会内に活かされたことだろう。

 

教育は、大切だと想いますが。人材を育成しなければならないと想いますが。しかし、いったいだれが 教えることができるのでしょうか?現在の芸大にも これらの工芸芸術を お知えられるだけの教育陣が居ないとおもいます。日本のトップと自負する 美術教育機関が、教育を成し得ないという実際的現実がある。
たった100年前の状況や技法が 伝わっておらず 解明されない。
現行社会の「廃棄速度」の加速は、ほんとうにばかげてるとおもいます。都市部の貴重な建築も どんどん破壊破棄されている。

 

いまの新規社会は、あらゆるものが「部品化」の組み合わせで立ち上がってるとおもう。手創りの妙は、身近にどれほど数えることができるだろうか?
あらゆる思考や思想も 既存の細分化の再構成に過ぎないのではないだろうか。

 

現行社会においては、ある規定水準を充たしていれば、それ以上の技能向上は、「利益の無駄」とされてしまう。だから、それ以上の練磨や真理探究は、個人の自費研究ということに成ってしまう。無一文の探求者たちは ほんとうに命懸けだとおもいます。そして、苦労して長年研究した才能は、一方的に提出奉仕するような社会性に 陥ってしまっている。それでは、研究者たちは、どんどん貧乏になってしまうだけだとおもいます。死後に研究が発見されるような社会に成ってゆくかもしれない。いゃ、発見されて研究が社会に活きるのであれば、まだ善いのかもしれないです。
そのことに気づくパトロン的な人も居なければ、技能を磨き身につけた伝承更新の教育者も居ない。それが、現在の日本の実情だとおもいます。これでは、若者もプロ(専門領域探求者)も だれも研究に没入できない。
そこで、考えられる研究手段は、現実社会に気づいたさまざまな分野の同士で 研究組合みたいなのを育んでゆくこととかか。そのことには研究費と長い研究年月が必要。原発汚染対応研究も そのようにして 前向きな自発的熱意あるチームを創ってゆかないと なにも すすまないとおもう。
日本の「芸術探求更新」ということも、ほとんど未知へ向き合うようなことを わざわざ やろうとしてるんだし。そういう流れの中で また 独自の「芸術家」が 誕生してくるとおもいます。
創作の為に必要な観察には、とほうもない時間と集中力が必要であります。

 

明治当時の職人工房は 厳格だったとおもいます。厳しい中に 横の相互理解・疎通連携を重視していたことだろう。そうでなければ、この領域の芸術実現は不可能だとおもいます。

 

日本人は、あらゆる意味で「恩返し」を忘れていると想います。
貧乏人や死者や先人たちの労力へ 感謝しない。現代社会は、搾取競争ばかりをしてる。
日本の工芸芸術は、社会が活きる為には「冗長やほころび」が いかに大切であるかを重視して創られている。
日本の工芸芸術は、実社会内に存在する実際の「冗長やほころび」を見事に具体描写しているだけでは無く、創作作品の内部に「自分なりの 冗長とほころびについての解釈」を感性として展開している。

 

この展覧会で、鑑賞者は、日本の工芸芸術は、「実用的では無い作品が 多い」ことに まず気づくとおもいます。「工芸って実用性の世界ではなかったの?」って。
実用性が無いどころか、注意深く丁寧慎重に向き合って作品に接しないと、ちょっとしたことでカンタンに破損してしまう作品が多い。鑑賞する側も 緊張と集中力を 持続していなければならない。そうしながらも、冗長とほころびの中に生きることによって、意識と生活が立体的に広がりを増してくる。「ある程度の集中力を維持したまま リラックスできている」それが、かつての日本社会だったとおもいます。たとえば、野生動物が、そのようだとおもいます。彼らは、あらゆる場面でも、すべての緊張を失ったりしない。常に 世界の状況を「体感把握」しながら 楽しんで おかしみながら 生きてる。つまり「自分が何者であるかを忘れたりしない」。野生動物に限らず、人間になつく動物たちも 体感的な世界観察の油断はしていないとおもいます。動物たちの感性は 常に能動的に世界に触手している。

 

ところが、現在日本社会は、「楽をする為」の機器ばかりが、氾濫している。人間自身個々の創意工夫能力は、どんどん 「外付け」になって行く。
今、日本を支えているのは、多くの犠牲者たちだとおもいます。金持ちらが、リードしているのではない。貧乏人たちが「支えている」とおもいます。なのに、擬政者たちが偉そうに君臨してる。

 

ぼくは、明治の職人工房が厳格に『冗長とほころび』の眼力を教授していた光景を 視てみたいです。
それは、ある意味で『無駄を叩き込まれる(笑)』ような 教育現場。現代の日本人には、自分が「何を怒られてるのか?」サッパリわからないかもしれないです。

 

体感的観察を持続更新してゆくためには、たとえば「どこまでもいつまでも描いてゆける」ような素描方法が必要。対象(視力を向けている世界)に発見の連続を維持すること。ぼくは、20代後期は、その研究をしていました。

 

ぼくは、今回の展覧会を見て、自分の観点が ある意味で正しいということを 少し補完することが成せました。
しかし、そのことで、落ち込みも さらに大きなものとなりました。現代日本のダメさと 自己の非力無能。逃げ出したくなりました。だけども、ショックで動けないし。真剣に見たのでへとへとに疲れていて ほんとーに おなかが減りました。

 

日本の現代アートは、「芸術である」ということを棄ててしまってるようにおもいます。

 

ぼくは、展覧会場で 悲しみと共に 孤立しました(笑)。疎外淘汰を感じました。
現行日本の内実は空洞だとおもいます。
明治以降の転落劇は すごい。

 

しかしながら、ぼくたち観衆は『神を崇める』ように先人の作品を鑑賞しているだけではいけないとおもいます。
現代日本と先人を切り離すことによって、自己正当化(自己人間化)しているような 哀れなみじめな人間に陥ってはダメだとおもいます。
先人の教授(作品の現存)に おしえを得てゆきたい。

 

真の描写の力量というものは、高画質カメラのような細密描写では無い。
対象の『何を描写するのか?』が大切だとおもいます。そうしながら、同時に 私的に自由に恣意的に やりたいことを生きてゆく。
その併走上の流れの中で 作品としてのクオリティをあげてゆくこと。そうすることによって、リアリティが 際立ってくる。密度を上げながら 時間を止めず。細部に進入しながら 世界を広大なものに育んでゆける。取り留めの無い突拍子も無い偶発では無くて 意図(世界観を認識自覚)しながら 現在現実と乖離しないように 飛躍(ぶっ飛んでいく)してゆく そのような飛行意識を常習とするような人たちが 明治の優れた職人たちだったとおもいます。
工芸の冗談の質が 深化してくる そして芸術が生まれる(昇華する冗談)
赤塚不二夫さんが「まじめに ふざけなさい」と実娘によく言っていたそうです。明治の工芸師たちは、大真面目にふざけていたのだとおもいます。有無を言わせぬ 真摯な冗談。冗長から生まれる洗練と卓越。

 

明治の工芸芸術は、見る側にも積極性や集中力が必要。ただ対峙するだけではなく 能動的に参加してゆかないと 真の善さが見えてこない。つまり、こちらが積極的に世界へ歩み入れば 限りなく 風景(作品)は応えてくれる。このことが、芸術の万人の享受。

 


ほんと、すごい展覧会
ぼくは、芸術家になんか ぜったいになれない とおもいました。またしてもガックリです。

 

三井記念美術館にて 開催中
http://www.mitsui-museum.jp/exhibition/index.html

 

添付写真は、象牙彫刻家・安藤緑山作