日本の そのような体質は、ずーーっと前からだとおもうけど。
企業内にも 届かない声がある。
http://www.asahi.com/special/yoshida_report/
国家や社会がちゃんとしている時期には国策(規則など)に従うのが社会人であるとおもうけど。しかし国策や社会が間違っている時代には、正して「善い社会を創る努力工夫」をするのが社会人たる使命だと、ぼくは、おもっています。
ぼくは、一人の社会人として何が成せるかを考えて言動行動してるつもりなんだけど、毎度、空回りみたいなことを繰り返してきています。市役所の窓口へ話しに行くのも その一環なのですが、なんだか、マヌケなクレーマーみたいに扱われてる感じで、自分が恥ずかしい人間みたいです。
学生のころに大学の体質を改善しようと行動していたときもです。なんだか、ふざけてるみたいに 視られることが多かったかもしれない。ぼくは、真剣なのですが。教授陣に 日本の社会文化に対する危機感が無いのだとおもいました。東京藝術大学は、実社会へ芸術家を育てる学校であることを明言しているにもかかわらずです。
「芸大を出れてよかったじゃないか」という先生も中には居ました、しかし、それは おごりの押し付けだとおもいます。
就職して自分で金銭を稼ぐことが社会人に成ると云うことでは決して無いというのが、ぼくの考え方です。
少しでも「『善い社会を創り育んでゆこう』と考えている人たちが「社会人」だと ぼくは 想って生きてきています。そのように想って生きてる人たちは、たとえ中学生であったとしても、親の保護下にあったとしても、立派な「社会人」だとおもいます。むしろ、そういう真剣真摯な利他の想い(愛情)を絶やさないように 支援することが 社会人の使命であるとおもいます。
自分で稼いだ金銭で「買い物」して生きることが 社会人の使命の第一義では無いとおもいます。
ですから、ただたんに雇用を増やしても 社会は善くならないとぼくはおもいます。
雇用先の企業なりが、社会にとって「善い会社」であることが まず大切であるとおもいます。金銭のためではなくて、「人のため」に成る勤め先でないと 意味価値が無いとおもいます。
金銭獲得や就職を最優先する国策社会は間違っているとおもいます。雇用や企業が間違っている場合を思考配慮していない それでは社会はダメになるばかりだとおもいます。
けっきょく、世界の「円価値」を維持するためだけに 国民は労働することになってしまう。それでは、ほんとうには、国民の為にならないとおもいます。
身近のあらゆることを経済的資産として見るだけの社会は閉塞するとおもいます。
市政側もわかっていないとおもいます。正確には、国民は雇用が無くて困っているのではないです。美術家は仕事は、すでにある。仕事を活かす社会が無いから困っているのです。
多くの専門職(職人さん)たちも 廃業や人生の転換を迫られているとおもいます。
しかも、国策や教育や親が言う『よい会社』というのは『給料が高額』の雇用先の事。これじゃ、社会は善くなるはずがない。基本がぜんぜんダメだ。
そして、自身の実力を活かせず職を失った人たちは「貧乏人」という 社会的な『見せしめ』に陥ってしまう。本来なのであれば、そここそを支援すべきが国策の冥利だとおもうのですが。日本は、真逆に進んでるとおもいます。
貧乏は、決して恥ずかしいことでは無いとおもいます。むしろ、貧乏な人たちを無視することのほうが ずっと恥ずべきことだとおもいます。
国民が「買い物」する場所を どれほどたくさんつくっても 日本社会は改善しないとおもいます。そもそも 商品そのものが劣化しているのだし。大金を支払っても ほんとうに「善いもの」は 買えなくなってきている。
善いものを創ることができる人たちが 居なくなってる。生きれなくなってる。継承できなくなってる。日常生活品も 食べ物も。
国民は理想(希望)をすてないでほしいと おもいます。
美術品についても同じだとおもいます。
ワタミやマクドナルドで我慢するからいいという「諦め感性」が身に付くのはよくないとおもいます。それでは、日本社会は、愛も理想も死滅してしまうとおもいます。
金銭と幸せ度合いは別々な社会が優れていると思う。「金銭は無数の手段の中の一つに過ぎない」という自覚が社会人には必要だとおもいます。
人が成せるのは「買い物」だけでは無いとおもいます。人は、分かち合うことだってできるし、助け合う事だってできるし、相談しあうこともできるし、贈与することもできるし、思いやることも気配りだってできる…そもそも 人は「愛し合うことができる」と おもいます。
ぼくが想うのは、愛し合うことがもっと社会に普通にあれば、そのことこそが 最大効果の倹約と節約を生み出すということ。カンタンに云うと「仲良し」ということだけど。
このような話を 真剣に言うと 笑われることがけっこうあるのですが…。
民主主義を成すためには、博愛と高潔以外に ほかにどんな方法があるというのでしょうか?
どなたか 名案が あるならば 教えてほしいです。
ぼく自身は、自分の経験上 個人に成せることは、たかだか知れているとおもいます。「笑われておわり」ということが ほとんどです。逆に説教されることもあります。
「少しでも善い社会を創りたい」という 自身の想いが 無駄な妄想のよう そして徒労な気持ちに 沈みます。
『社会人』というのは国家や社会の末端にぶら下がっているのではない。社会の(国家の)一端を握りしめているのだという自覚で日々を生きてほしいです。市民が普通に生きるために。許してはならないことがある。忘れてはならないことがあるとおもいます。
社会の行く末を 握っているのは 私たち市民の側であるはずだ。
「社会」は、市民が創ってゆくものだとおもいます。
仕事も市民の側から 編み出して行く
マイナーマイノリティの側からも社会は創られている、
しかし、それらは 意識的に注視せねば気づかない。それは 視ようとしなければ、見えてこない作品のようなこと。
ぼくは、人間が好きなほうだと思います。
苦手な人は居るけど、嫌いな人は居ない感じです。
だからなのかも知れないけど、相性がピッタリで無くても、人と一緒に居るときとか幸せな気持ちに成る。
ぼくのことを嫌う人たちのことも
ぼくは好きだと思う
慶應小学校とか 有名学校へ子供を入れるよりも、
ちゃんとした社会を創ったほうが、より子供たちの為に成るよ
有名企業へ子供たちを入社させるよりも、
ちゃんとした会社を創ったほうが、より子供たちの為に成るよ。
創作家と社会が乖離しているのは善くない。しかし、創作家たちが国策に迎合追従していたのではもっとダメだ。アーティストとしての社会的な意味価値が無い。
社会の方が方向転換せねばならない。
多くの日本人らは、善い社会をつくってゆくことを諦めていると思います。それは「社会人」に成ることを 自ら放棄していることだとおもいます。
ぼくは、諦めていないです。
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少しずつ少しずつ 一歩一歩 立場や分野を超えた対話を育んでゆくこと
届かない声がある
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自己鼓舞のために 描きました