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母親から 電話があった
母親からは ほんとうに めったに 電話は無い
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まあ、さいしょは、ふつーに はなしてたのだけども。
戦争のことを考えていたので、そういうはなしを ぼくがちょっとした。
そしたら、母も 戦中のことを考えていたのだそうだ。
母親は、与謝野晶子「君死にたまふことなかれ」について 話しだした
「親は、人殺しをさせるために 子どもを育てたりはしない」って。
なんのために だれのために 死なねばならぬのか。なんで、憎みもしない 罪も無い人を、我が子が 殺さねばならぬのか。我が子を徴兵した者は、戦地に 行かぬではないか。
母は、話しながら 声を出して泣きだしてしまった。
http://www.geocities.jp/the_longest_letter1920/kimi_shinitamou_koto_nakare.html
んで「あんた いつ帰って来るんや? 盆すぎるよ」って言うしな〜。
ぐうの音も出ない
帰らねばなりません
また 仕事をやすむ
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金魚の絵は 去年のもの
今年は 忙しくて描けなかった
緒方さん
私は、今年も8月に学生を連れて石巻に行ってきました。
4年半がたっています。
お母さんが、戦時中のことを一所懸命話すのは、経験したことの大きさと
関係するのではないかと思います。大きな(又は過酷な)体験ほど、
人に伝えるのが必要に感じる、または使命感が湧いてくるのではないかと
東北の訪問をしてきて考えていました。
今回は、大川小学校で6年生の二男を亡くされた方と、漁業関係者で地震直後に
祖父からの言い伝え通り、家族も顧みずに持ち船を仲間10人ほどと共に沖に出した
人の話を聞けました。
震災直後は、ショックもあり日々の生活の再建もありで、当時を冷静には見られなかったが、
このごろは、生き残ったものが「生きたくても生きられなかったもの」のことを
多くの人に伝える使命があるのではないかと思うようになった。と話していました。
お二人とも、別々の地域に住まわれていますし、被災の仕方も違うのですが、
同様のことをおっしゃったので、とても印象深い訪問になしました。
戦争体験が同じとは思いませんが、人の本能として経験を引き継ぐというものが
備わっているのだと思いました。
物理的な遺伝だけではなく、情報を後世に引き継ぐということが生命の連続性に
繋がるのだと強く意識した体験になりました。
きたさん。
そうですね。
母親の体験は、ほんとうに大きいとおもいます。
人の感性は そうかんたんに衰えたりしないのだとおもう。
ただ、なんというか、現在の社会性というか、「何か」(なんらかの外圧)が、感情の発露を抑制してるというか。
まあ、それは 言いたい事を我慢してるというのとは ちょっと違うかもしれない。
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ぼくの母親は、ふだんは 昔の事(戦時中のこととか幼少のこと)をあまり話さないひとです。たいがいは、家族ができてから以降のことを話してくれます。
母親の戦中とか幼少期とかのことは、ぼくが興味本位で 根掘り葉掘り聞くから ぼくのその要望にこたえて話してくれます。
ぼく自身、ショックが大きいと その「ショックの出来事」そのものを スッポリと忘れてしまう性格みたいです。ぼく自身の幼少のころのこととかです。そういうときに 「ぼく」自身に何が有ったのか?ということを 母親が話してくれています。まぁ、つまり、他者の記憶によって、ぼくは「ぼく」自身を補完し理解していってる途上ということにも成るのだとおもいます。
そうやって、お互いの当時のことをちょっとずつ話し合うことによって、双方の「物語」の背後関係が接合されてゆく。おたがいに「そうだったのか」みたいな いまでこその発見もあって。しみじみと「豊かな」気持ちになる。個々の人生は バラバラかもしれないけども、素直な語らいによって 関係性のようなものが蘇生して 記憶が歴史と成って息づいて来る。
ぼくの母親の話し方は、ちゃんと登場人物が明らかで、当時の対応とかを具体的に話してくれるので、解り易いです。客観的な状況と 同時にそのときの母親自身の感情も話してくれる。聞いてるぼくとしては、当時の社会状況も解るし、その中に活きながら 母親が個人として できうるだけの 「せいいっぱい」を生きてたということが なんとなくわかるので、なんとなく、ぼくの理解の範疇に なんとかちょっと収まるのだとおもいます。
つまり、まぁ、ぼくは、母親の愛情を一方的に享受してるだけかもしれないけど。
ただ ひたすら、母親自身の「信じる力」に支えられて、ぼくらの親子関係は活きてるということなのだとおもう。言い方を変えると、母親自身の意志の強さ イメージ力の強さと豊かさ 感情の確かさ 忍耐強さ。
決して、ぼく自身の愛情や努力工夫のせいでは無いということが、さいきん痛感するところ。で、親から離れて自分勝手に活きながら 美術なんかのことを あれこれ思考してる自分は 「ぁあ、やっぱし、自分は親不孝だな」とおもう。
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