母親は、戦時中、軍の工場で働いていました。

母親は、元々、東京に生まれ 東京に住んでたんだけど。小学校三年生までに両親が他界していて。あちこち転々と あずけられて生きてた。
戦中は、岐阜の姉のところに疎開して、幼児の世話をしていた。岐阜での女学校卒業のころに、軍から募集が来た。母親は、東京へ戻りたくて応募した。なにがなんでも「東京へ戻りたかった」(笑)。知識欲とか好奇心の強い母親は、岐阜の学校は つまらんし、安泰の(戦中だから安泰でもないのだけども)田舎暮らしもイマイチだった。
まぁ、両親を幼少に亡くし、子どもの頃から勝手に字の勉強をしたり本を読んだり そういった空想の世界が 母親の活力というか、喪失感や寂しさの補完っていうか、唯一の楽しみだったのだとおもう。

青梅の工場で勤務していた。陸軍航空機のエンジンをつくる。
そこで、部品管理の帳簿を付けていた。コピー機とか無いので、同じ帳簿を三冊同時に手書きで作る。ただ一度だけ、間違ったことがあった。母親自身、「自分が間違うはずがない」という自信があったので、凹んだ。けども、母親の オモシロイところは、そこから徹底的に自己分析してゆくところ。しつこいくらいに過去を振り返って、なぜ自分が間違ったのか?を考える。んで、結果、あまりに激務すぎて「ぜんぜん 寝てなかった」ことに気づいた(笑)。「ぁあ、眠らないと 自分も間違うのだ。これからは寝よう」って おもったそうだ。それからは、一度も間違わなかった。

東京大空襲のときには、首都圏方面の夜空をみると、ほんとうに明るかったそうだ。真っ赤で。夜なのに空が。そのときに母親は「今言うと、なんだか不謹慎だけれども、ああ、奇麗だな。って想った。そうおもう自分がなんだかなって」。そういうときの死は遠い。そういうはなしを 母とはよくする。

一方、同時に、自身の勤務する工場も攻撃されるわけだ。
工場には、何カ所か避難防空壕がある。
某日、午前中の攻撃は、母親は工場の正門前の松林の防空壕へ逃げた。午後は、工場裏の畑の防空壕へ逃げた。午後のときに、松林に米軍機が墜落した。
まぁ、母親の直感というか、まあ、そのときに母親が生きてたから、いま、ぼくが生きてるんだけども。

母親は、防空壕に入るときに、先に若手を奥へ入れて、自分は、一番出口のとこへ陣取って、外部を警戒する。若手は高卒くらいの人たち。っていうか、母親も当時は、そう変わんないだろーっておもうけど。強がりだ。「自分は 親も居ないし いつ死んでもいい」って思っていたそうだ。ぉい まってくれ、って ぼく的には、言いたいけど、母親の人生は いつも そういうところがある。今の口癖は「生きすぎた。もういい。自分は、いちばん早く死ぬとおもっていた」だから。

っていうか、防空壕の話だった。
防空壕の入り口に居ると、低空で攻撃しに来る飛行機のパイロットの顔が見えるそうだ。顔が認識できる距離で航空機から機銃掃射してもこちらには当たらないということが充分に解っていても、「顔」「表情」が見える、ナマに「わかる」ことが、すごくすごく 恐ろしいのだそうだ。じゃあ、視なけりゃいいのにな。
ってゆうか、よく、そういう状況下で 瞬時に上空を通過する飛行機のパイロットの顔を観察してるものだと思う。そういう母親の視力というか、好奇心の向かうポイントっていうか。おもしろいっておもう。っていうか、スゴいっておもう。戦争を舐めてるのかっていうのではなくて。戦中のまさに爆撃で死ぬかもしれん防空壕の入り口におって、相手のパイロットの顔を視てるってのは、ほんとうに 希有っていうか。実に オモシロイ。いかなる局面においても「個人」で 生きてる感じがする。周囲から そういう人の態度をみると、ぼくは、もうハラハラしちゃうけどな。

松林に墜落した飛行機の現場は、立ち入り禁止。
しかし、そういうところも、「視たくてしょうがない」というのが、母親で。なんで「女の人は立ち入り禁止なのか!」みたいな、禁止されればされるほど 視たく成る 知りたく成る、っていう。困ったひとで。
墜落したパイロットの大きな靴が 落ちていて。靴からはまだ煙が出ていて。
とか。

東京大空襲の後も、初期は、立ち入り禁止だったけども。
解除されてから行ったら、焼けた電信柱がまだ くすぶってたそうだ。なんで そういうところへ行きたがるのかわからんが。都心に生まれ住んでたから 都心(故郷)を母は愛してる。
自身の愛すべくを「気になってしかたがない」、よくわかる。有形であろうが無形であろうが。

戦中の工場勤務時代は、文学に飢えていた。
西洋文学は、なにもかも発禁本。
それでも工場内では、密かに読んでる人たちが居る。おもに男の人たちだったりする。母親は「お願いだから、一日だけでも貸してください」と お願いして、見つからないように隠して寮に持ち帰って読む。消灯時間もあるし、ざーーーって読む。「もう 結末から読む」って言う(笑)。それから、読めるだけ途中を拾い読みする。だって 数時間しかない。翌日には返却せねばならない すごい集中力だ。そうやって「風と共に去りぬ」とかを読んだ。

戦争に負けることは、みんな知っていた。
しかし「負ける」と言ったら、憲兵にしょっぴかれる。誘導尋問みたいのもある。「負ける」と言わせることが 手柄になる。
正直な「感受性」が裁かれる。
すなわち デリカシーが禁止されている。

まぁ、工場では米はちゃんと食べれた。それが善かったという。
玄米。大釜で炊くので美味いそうだ。おかずは、いつも「ひじき」。醤油や塩が欠乏してるので、味は、一味唐辛子で変化をつける。ご飯は全部食べずに ほんのちょっと残して、鍋で煎って、おやつする。

そのあと 終戦間際
母親は 関西方面への疎開を余儀なくされる。
知らないひとの家を点々と、野宿のように軒下とか納屋に住まわせてもらいながら、売り物に成らない小粒のジャガイモをもらってきて 一斗缶で焚火して自炊しながらちびちび旅をして、こんどは、奈良の三郷村の中部軍/兵器部の事務に勤務することになる。
えーと、ちなみに、自炊のときには醤油とか無いので、岩塩を水に漬けて溶かして、味にしたそうです。
そして 広島に 新型爆弾が 投下される。直後に現場に居た軍医が奈良に戻って、その状況のすさまじさを母親に語った。

終戦後は、戦争で焼けた大阪のバーとかで 母親は働く。

 

 

とか、書いてると
なかなか たくましーなって おもう(笑)。ぃや 笑いごとじゃあなくて。そういうことを あたりまえに はなす母親は オモシロイ。「そりゃ大変だったけど すごくつらいってことは無かった」っていうから。ぃや 「それ、充分ツライやろ」って言っても 「おもしろいこともあった」と言う。すばらしいと おもう。そういう感性が。感受が。ぜんぜん貧富とか気にしない。まっこうから そのときどきの「現実」をリアルに引き受けてる。だから 詐欺に騙されたりもした。いまは、だいじょうぶ。一緒に弁護士と対応を考えたから。母親は、人に騙されると、自分では解ってなくても、態度(表現)に出る。だから観察してると、今、母が、どうなってるのかが すぐにわかる。とにかく アンフェアが嫌いだ。かといって、好奇心が強いから無謀だ。末っ子で子どものころから、体が小さくて体力は無いのに、冒険心だけが強い。それが90歳に成っても同じような感じだ。ちょっと 困る(笑)。つねに責任感は強いんだけど 自分の状況がわかってないというか。


母親は、幼少のころからチンドン屋に付いて行って 行方不明になったり。好奇心ゆえに、迷子になったりした。
2.26事件のときには、雪の中 小学校へ登校した。到着一番だった。母親は得意だった。先生が校門のところに立っていて「寄り道せずに まっすぐに家に帰りなさい」と言った。そのときの先生の顔が 「すごい怖い顔」だった記憶があるのだそうだ。

その母親と 戦争とか人の生死について ここのところ10年くらい よく話す。

戦争は あかん
今も あかんけど 戦争は まったく あかん