「野火」塚本晋也監督

みた。

塚本監督が談話で
「アメリカ映画は、仮想敵を設定して撃退殲滅することによってヒーローを崇める構造。ヒロイズムを煽動する。だから、自分は、敵を描かずに、戦争の無意味さ ばかばかしさだけに集中するように作品を創った。」というようなことを言っておられた。まさにそのような作品だった。
この作品のなかでは だれのヒロイズムも満たされてはいない。鑑賞者のヒロイズムも打ち砕かれる。機銃掃射は、ぼくたちの日々の「形骸の安泰」をも砕いてゆく。
落としどころの無い イヤな気持ちが残りつづける。
この作品と 今 此処との 実際距離は どのくらいなのだろうか?

仲間たちが一瞬にして銃弾に粉砕し バラバラの肉塊 そこにはなんの救済も寛容も慈悲もない
ただ死んでゆくしかない ただ死に向かわねばならない 殺されることから逃れることはだれもできない
当事者には「生きたい(死にたくない)」という想い(意志)が いつまでもあるにもかかわらず 死ぬしかない
罪悪の裁きでは無い ただ殺される ただ死ななければならない
兵隊は支配から解かれることなく ただ死ぬために 歩いている
殺すことも 殺されることも とまらない

国家主導者が ヒーローを目指してはいけない。
ヒーローの快楽に浸るために 悪者(敵対者)をつくってはならない。
ヒーローは幻想。
ひとは知らない人を抹消するのではなくて、共に生きるための工夫をしてゆこう。
生きるための道が 友だちを食べることであったのでは 悲しすぎる 直接であれ 間接的であれ 近くであれ 遠くであれ

この映画に
救われるのは 観賞後に 友だちと会いたくなる ということだった
はやく友だちに会って 目前に声を聴きたい そのように おもう作品
感受の触手が曇らないこと
感受を意識すること

映画の中に答え(活路)がある必要は無い
こたえは、実社会のなかに生きながら編み出してゆけばいい


http://nobi-movie.com/