◆
東京都 現代美術館にて開催 28日まで
http://www.mot-art-museum.jp/exhibition/sayokoyamaguchi.html
「山口小夜子」展覧会を視てきました。
視ないつもりだったのだけど、なんだか、急に「視よう」とおもった。ほんとうに急に。
◆
今回の展覧会は、アーティストとしての 山口小夜子を紹介する構成。
ぼくは、山口小夜子が勅使河原三郎と踊っていたことだけしか知らなかった。ぼくは、山口小夜子さんは、モデルが本業だとず〜〜〜っと想っていた。そうしたら、本人アーティストだった。
以下は、感想というか 勝手な私感。
◆
人形の人間の人形
ピュアな感じがすてきでした。
『死』を身近に感じる事は、そう悪いことでは無いとおもう。
今の日本社会は、「死」が遠すぎるとおもう。
現在の日本社会では
死は、心情的に遠いにもかかわらず、「命の値段」ばかりが身近に日常的に語られる。
そのことのほうが、死よりもずっと恐ろしい。
日本人らは「自分たちは高尚で偉い尊い人間」だと思いこまされながら、奴隷支配されて、苦節の人生に朽ち果ててゆく。日頃価格の付いてる日本人は、戦争したら、使い捨て
「山口小夜子」展覧会は、ある意味でのお葬式。彼女の死を まだ受け入れられていないような人が居るのだとすると、あのように「遺品」を大量に並べ公開してもよいものだろうかと、想った。遺品はつまり「作品」群と云えるのだけれども。
特に、山口小夜子がアーティストとは知らなかった自分は、本展覧会をそのような印象に視れたのは、まあ、善かった事なのかもしれない。体験的に。ひとりのアーティストの回顧展のようには 視れなかった。
メキシコの著名な画家の遺品を丹念に写真に撮った女性カメラマンの映画が有る。それとは、また違う展覧会であったようにおもう。
山口小夜子の「死」が、なんだか、まだ生々しい感じで 身近にあるような気がした。山口小夜子の個人/私的は あまり語られてはいなかったが。そのような雰囲気を直感した者にとっては、お化け屋敷のような印象の空間だったかもしれない。風化しない「死」が ある感じ。怖いような ドロドロしたよーな、それでいて、なんだか、純粋で透明な「何か」が いつも寄り添ってるような。悪い気のしない お化け屋敷 っていうか。降霊の舞。
ちょっとお葬式 ちょっと展覧会、という感じか。
「アーティスト山口小夜子」を紹介する展覧会というよりは、「山口小夜子という日本人の個別の死」を扱った 追悼式というような。なんだか、中途半端な(意外な 新鮮な) 気持ちが残る。山口小夜子の知られざる世界という印象よりも。なにか、別の未消化の強いものが残る、ということ。それは「死」ではないのか?と。
と同時に 存在の「魂」の透明を 想像するような
けっきょく
つかみどころの無いことがらを 想いつづけることができる ぃや そう心境しなければならないことが たぶん 生きている者らの いい感じの状態というか
自分で なにを言ってるのか わからないけれども
時期が早いのか、あるいは、紹介の仕方がイマイチなのか?
もしくは、日本人たちが、ぼくを含めて、あまりに「死を遠ざけて生きてきている」からなのか?
一方では このような印象を受けたということ。悪い展覧会というのでは無い。だから、つまり 境界に漂うグレーゾーンの意図は成功しているのだとおもう。
こういうことも、自分の妄想だけど。
◆
山川冬樹さんの作品が 印象的でした
山川さんが 山口小夜子の身をまとって、福島第二原発を 訪れる。
海を眺める 「未来の本」を手にしながら
◆
影絵に踊る 山口小夜子さんの 手が美しかった
指が奇麗
肘が奇麗
山口小夜子さんが まとう 「山口小夜子」
◆