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あくまでも、今の ぼくの私感ですが。
彫刻家というのは、裏方のような仕事だと思う。まぁ、画家も。「本人そのもの」仕草とかは、作品では無いというか。
画家や彫刻家は、引きこもってコツコツ描いてるというイメージが、消せない。頭が固い。考えが古いというか。
だから、ぼくのおもってる「ライブペインティング」というのは、画家とは、またちょっと違う。というのが、ぼくの個人的な想い。なんで人前で作画してるのか、意味がわからない。
「なんで、画家が表に居るのか?」「自分の仕事はどうしたんだ?」っていう、そういうことばっかり考えてしまう。舞台の大きな絵も、会場に人が居ない時に描くのがいい。それも裏だからこそ面白い。
氷塊とかのライブ彫刻とかをやるんなら、下手でもギターかなんか楽器とか演奏したりしたいと思う。音楽は、いいなと思う。
唄やダンス(身体表現)が、自分から発生するのは、その、もっと後だと思う。その、ぼくの自己ダンスの流れで、ライブペインティングに繋がるというのであればそれはアリだと思うのです。「描いてるところを見せるための絵画」っていうか。ナマで唄う「本人」が 居なければ歌は、現場に有り得ない、というか。うまく言えないけど、なんだか、ライブペイントというのは、腑に落ちないまま 今に至る。
パフォーマンスアートというのは、また別で、ぼくもいくつかパフォーマンス作品があるのだけど。それはライブペインティングとは違う意味でよい(アリ)と思っている。パフォーマンスとしてでないと創作表現できないような作品だから、それは、もう作品だから しょうがない。
つまり、ライブペインティングのことをパフォーマンスアートだと かんたんに直結して語れないということなのだとおもう、ぼくの想いでは。
パフォーマンスアートとしてその流れの中に 作画要素が入るのは、それはそれでよいと思う。
っていうか、やっぱり、考え過ぎだ。自分。ダメか。
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彫刻家は、石を彫るときは野外で仕事することが多い。
なにも言わず巨石に向き合う人間は、なんだかストイックに見える。コンコンカンカンと石を刻むノミの音。寡黙でもの静かで。まぁ「絵に成る」。忍耐強い感じ。内に燃える何かを連想させる風景。
ゴーグルしてるし、防塵マスクしてたりするし。そもそも顔が見えない、冬場は厚着で体型が解らないことすらある、だから、「石彫家」を視る側は『感情移入し放題』。石彫家は、みんな かっこ良く見える。石彫家は、だれもが「男らしい」みたいなか。
大学は、音楽学部が併設されていて、クラシックの音楽科の(上品な美しい)学生の女の人が、石彫制作現場を たまに視にくる。「視に来る」と思ってるのは、石彫家の側だけかもしれないけれども、とにかく、視ている。石彫家たちは、視られていることを、意識している。ぃや、ぜったいに 解ってるはず。
観衆は、視てるんだけれども、石彫はちょっとやそっとの時間では、ほとんど形が変わらない。ほぼ静止画のようなので、しばらくすると 音楽学部の女の人は、(飽きて)どこかへ行ってしまう。石彫家は「あれ、もういっちゃうの?」とか、想ったはずだ。しかし、それでも、彫ってる。っていう その「視られる自分」と「見放される自分」に酔ってはいないのか、とか、つい思う。それっていうのは、彼らは「ストイック」について考えてるのであって、ちっともストイックじゃ無いじゃんか、みたいな(笑)。「作品」で 作為ポーズしたほうが、いいだろう、みたいな(創作に狂えないならば)。
それが、ライブペインティングと なんだか似ていないか?ということ。
石彫家の日々は、パフォーマンスアートでは無い。それとも、「自己の日々」を 作品であると主張するだろうか?
なんだかね、そうなっちゃったら、なんか、スゴいけどな。なかなかできない。恥ずかしいというか。オシマイというか、諦めというか。まあいいけど。
たしかに美術家という仕事は、「世界活動」と「生活」と「創作仕事」というのは、常に近接していて、「生き方」そのものが 作品みたいに成ってくるのは仕方がないとは おもうけども、それを 作品と言ってしまってはなぁ、もともこもないとおもう。
まぁ、一方、石彫家が野外で石粉まみれになって寡黙に作品制作する「現場」、というのは、
農家や漁師や左官屋さんとか、そういう仕事の姿と重なる。現場感と「作品性」の差異。っていうか。リアルとリアリティ。っていうか。
とか、言いつつ、
土で作品を創ってるぼくは、ほとんど屋内仕事。仕事中、だれにも視られることはない。そうでないと 仕事にならない。外部/第三者による 「仕事中」現場判断が無い。ガッカリちゅうか(笑)。妙に真剣な真面目な姿を 人に視られるのが恥ずかしいから 必然的に「仕事」がこうなってるっていうか。っていうところが、やっぱり素人なんでしょうねー。
まぁ、屋外で、「日干し煉瓦」で作品を創るなんてことがあれば、それは、土で作品を創る「自分」が 人に視られる現場ということなのかもしれない。
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俳優さんやダンサーの人に絵を描いたことはあります。
野外公演のときに 野原に俳優さんが立ち並んで そこにぼくが絵を描いてゆく。サーって描く。早く。そのままの流れでダンスやワークショップに展開する。みたいな。
衣装やユニフォームを即時現場で創るみたいなか。白のテーシャツ着て集まったところを どんどん描いてゆく。でも、それは、ライブペインティングという作品ではなくて、舞台美術担当の自分が、たまたまダンス作品の演目性質上、表に出ざるを得なかったということだとおもいます。作品が始まる前に、事前のしこみをやりようが無い。ぃや、あるか。あるな。じゃあ、やっぱり、「ぼく」自身もダンス表現作品の一部なのか?
とか、ゆっくりと考えると グルグルしてしまう。
まぁ、だから、「始まり始まり〜」みたいな キューを出してくれる人とか必要というか。じゃなくて、ここから作品が始まるのだな、みたいな「開始点」が あると楽っちゅうか。だけれども、そこを 「いつ始まったのかわからない」くらいに 自然に作品に開始してゆくといううのが、ある意味で オモシロイ。ときもあるし。こぉ、古典とかスタンダードを 公開するような表現ではないので。
気がつくと 視ていた人たちも「作品」の中に滞在している。みたいなか。作品に取り込むとか取り込まないとか そういう話ではなくて。きっちり開演終演の区切りがあるほうがよいとかどうかとかでもなくて。
って、こういうのを あーだこーだ グルグル描くことも あまり意味が無いと思う。
書き続けると「自然とはなにか?」みたいな話に成りがち。
だからといって、
挨拶やお礼みたいな言葉ばかりを連ねていても それもまた なんだかなーっておもう。
せっかく 日本語を知ってるのに。っていうか。うーん。
まぁ、これもまた「コミュニケーション」の話題の一環なのだと おもいます。たぶん。
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ぼくにとって、言葉は、創作の旅へ向かう 手続きみたいなことだと思います。あるいは、道中で拾い気づいたことの覚え書きのようなこと。
まあ、そして、言葉に成らなかったことが 作品として立ち上がってくる。いずれにしても、言葉は追いつかない、言葉が降りてきたときには、想いは先にある。吐くだけ吐いて、それでも残った溜まりこびりついた澱のようなものが作品になるのかもしれないけど。
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劇団やダンス関連の過去画像資料がなかなか見つからない、
それは、当時は、デジカメでは無かったからだと想います。「データ」に成っていない。パソコンもケータイも無かった。ビデオ撮りも専門職依頼だった(まぁ、だからこそ、いろんな分野の専門家たちにナマに会って仕事が成せた)。
当時、ぼくは、フィルム写真をハガキサイズにプリントして、手紙を描いていました。だから、当時の写真が、あまり残って無い。そして、物質的な「量」として、写真の箱詰めが 工房に積んであって。それを全部、開けないと、どこに どんな なんの「ぼくの記憶」が 入ってるのか?
それが 不明ということ。
パソコンの中ではなくて、部屋中をひっくり返さないと「自分」が 出てこない(笑)。
写真に記録して、安心してたら、記憶喪失に成る。
そういうことは、アナログの時代から もう始まってるってことだな〜。
パソコンを持ち歩かなくては。「自分」だから。って。やっぱし「バックアップ」必要かなー。
と言いながら、
ヤッパシ「一回性」「唯一」で 創作してゆこー。
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以前、和食屋さんに器をたくさん買っていただいていていました。
先日、その和食屋さんの息子さんに久しぶりに会いました。「オガタさん、うちの店で、熱帯魚を食べる会をやってましたよ」と言われて、ビックリ。すっかり 忘れています。
ぼくが、「熱帯魚の天ぷらは美味しい」と言って、みんなで食べる集いだそうです。たとえば、エンゼルフィッシュとか。
それらは、とても「美味しかった」そうです。
記憶に無い。
メモリーが無い。
ぼくはスマホとかよりも、首の後ろあたりにUSBポートが欲しい。
でも、友だちたちが、「ぼくの記憶」を担当してくれてるから だいじょーぶ。
ぼくが、「だれなのか」また、お知えてください。
とか、言ってるから、いつまでたっても コミュニケーション能力が向上しない。
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