作品(建物彫刻)を創るためには 毎度 飛ばなくてはならない

今回は空からだけではなくて海からも 向かうのだけれども
なぜ海からも行くかというと まず、「白いまち」に辿り着くことを優先しているからです。飛ぶことは「白いまち」に到着してからでもよいから
いろいろな方法で向かってみる
海からだと「カタラギ」経由というとになるだろう たぶん

カタラギというのは、20年以上前に思考していた創作村計画 映画に成るはずだった
ロケ地も見つけて通っていました
詳しいことは またいつか描こうとおもいます。

2015-03-27 20.31.47


先日、素晴らしい飛行撮影家 多胡光純さんから話を聴くことが成せた。
エンジンパラグライダーで単独飛行撮影。多胡さんが背負うエンジンが、この写真。

ぼくも、こういう「飛び道具」を脳内に持ち込めたらよいのだけれども。体内に運ぶには 少し大きい。
そもそも、脳内飛行は、音をたよりに飛ぶので 音の出る飛行道具は使えない。自分から音を発しないこと。妄想は 五感を澄まして飛ぶ。風をよむ 鳥のように。

あらかじめ空があるわけではないので まず空を創ってから飛ぶ。というか、空が「できるのをまつ」。これが じれったい。しかし、焦ると 空では無いものに 突っ込んでゆくはめに陥る。それは、よくあること。妄想の世界の中にあるのは 気体液体個体、だけではないので、「得体の知れないもの」と かかわってゆかねばならない。そういうのは、めんどくさい。なるべく回避したい。
現実の実際日常は、素晴らしい。見上げれば、「必ず空がある」んだから。

非日常へ いかに「自然」に 歩み入ることができるか。意識をやっつけないように。主導権が 常に「向こう」にあるようにしながら。招かれるように 進む。そうでなければ、不用に想像してしまう。妄想の中で 想像してしまうようなこと。そうではなくて、実際に「在る」ものだけを 目撃すればいい。ニュアンス。

つまり、妄想ということは 構築的なことでは無いということ。組み立ててゆかない。っていうか、組み立てることは不可能なはず。もしも 組み立ててるとしたら、それは、妄想の中で  さらに「想像」を し始めてる証拠だとおもう。それは警鐘。
組み立てるのは、あくまでも「作品」。妄想は、取材する「場」。ここらへんのことは なかなかうまく言えないです。そこの 見極めが いつも難しいし、そこで失敗するのだし、混乱するし混同するし、知れば知るほど 考えちゃ 翼が捻挫して 妄想から墜落する感じ。

鳥が空を創ったのではないでしょう
空があるから 鳥がいる
鳥は そらがあることを 信じて うまれてくる

自己体内のイメージの空に想いを飛ばさなければならない。実際に現実の空を飛んだら、ぼくは、たぶん 作品を創らなくても済むとおもいます。
だから、ぼくは、ますます、引きこもって「イメージする」必要があると想いました。

ぁあ、朝に成ってしまった。鳥が鳴いている。日が長く成った。
仕事のことを考えていると すぐに時間が経ってしまう。
早朝の三時から四時半くらいまでが、一番、妄想仕事には いい時間。非日常と日常を いい感じで連動できる時間帯。今日は、ちょっと無駄にすごしてしまった。