今回の抑鬱の探査から 生まれたキャラクター
名前は ないです

右往左往する妄想を 「白いまち」へと 導いてくれるはず
2015-04-10 05.21.43


妄想は、妄想家の自由には なかなかならない。多くは、最悪の状況を空想している。
だけれども、自己の卑屈(ネガティヴ)を知ることは、創作には必要だとおもう。新たなる自己憐憫の展開も知っておくほうがよいようにおもう。前向きに創作を具現してゆくときの糧と成る。
だけれども、とてもイヤな仕事。凹む 滅入る。自己嫌悪 自己不審。そして軟弱怠惰愚人との対面。
底なしのネガティヴの最中に 空を掻く。忘却に逃げたい。しかし、それはイメージの放棄。意志の責任回避。

毎回、展覧会の度に 妄想へ歩み入る。しかし、なかなか入れない。何ヶ月もかかる。行くのには、何年もかかるときもある。空想の拠点へ行く方法は いろいろあるけど、近道はひとつも無い。一気に現場へ到着しても ニュアンスを把握できない。その地のことばが理解できない。ニュアンスを「風景」として認知できなければ、絵も描けないし ましてや立体彫刻など創れない。

自己の足取りの記憶が必要。
なぜならば、妄想世界では、自身が歩んだ軌跡が「道」となるから。多肢に歩く。それが地形と成る。その記憶体感を毎回「地図」にする。道標が必要。
毎回、同じような事を しなければならない「ニュアンスは消えてしまう」ものだから。妄想の風景に立つニュアンスは、だれとも共有共感は不可能だから。それでも、なにをどうしたってニュアンスのほとんどは 具現しない。

ちゃんと経緯をふまえないと 意識世界の中で遭難してしまう。
そして、妄想は、体力気力が必要。

展覧会の度に入院手術をくりかえしてきたけど、もう、苦しいのは嫌。痛いのもイヤ。深い妄想を続けると、心身が蝕まれてくる感じ。だから、妄想そのものをしたくない。入りたく無いという気持ちが、つきまとう。とても臆病だ。今度は、もう還れないのではないかとか 毎度おもう。
日常のさまざまにかかわりながら、妄想へ入るのが難しい。だから、無理をする。強引に妄想へ入る。それがよくない。危険だ。
ほんとうは、もっともっと、月日をかけて ゆっくりと世界へ歩み入るのがいい。

今回も、イマイチ うまくいってない。
体調が すぐに悪くなる。年齢的なこともあるとおもう。

今回は、自然発生的に同行者が生まれた。ということ。というか、妄想へ向かっている意識や想いを「比喩」して、自身に現在地を認識させるために。
オガエルでは 行けない。オリジナルのキャラクターでなければ、自身の体内へ入れない。

いつも おなじ顔

旅路は うまくゆくだろうか
わからない

作品が具現するまでは 失敗も成功も無い
だけれども 意味や価値は すでに うまれている

意識は あるいている

まだ ほんの入り口を うろうろ

創作行為ということは、
ふと、思いつきで 空想するような状態ではない。
積極的に「妄想」へ 踏み込んでゆくことが成せねば 創作作品は 創れない。
辺境の深みに とどまれること。
息の長い潜行。