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絵画だと、器を描くと、必ず「絵画」に成ります。平面作品だからです。当たりまえのことだけど。
しかし、彫刻だと、器を創ると、なんと「器」が、出現してしまうのです(笑)。ビックリです。当たりまえと言えば、当たりまえなのですけど。
まぁ、そこで、多くの彫刻家らは、テーブルと器を固定したり、コップを無垢に密閉したり、持てないくらいに重くしたり、人が入れるくらいに大きくしたり…と、なんとか「彫刻作品」として、成立させようとしてきました。今までの概念での彫刻としてです。
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ぼくの場合は、意味において「彫刻作品」を創ろうと想いました。
ぼくの創る器彫刻は、倒れそうだったり、とても薄かったりします。不安定で危うい。従来の彫刻とは逆に「存在の希薄」を具現するものです。
カップ群は、薄くて軽いです。このことは、器の中に入っている液体(酒とか)そのものの重さを手中に感じる為にです。コップよりも中身が存在を主体に感じるような器ということです。器の口当たりも、とても善いと想います。手に収まった液体(珈琲や酒など)が、そのまま口中に広がる感じです。「液体を手で持ち上げて、口もとへ運ぶ」という感じ。
取っ手とかは、ともすれば握力で壊れそうです。机に強く置くと、その反動で壊れてしまいます。
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ぼくは、世の中の、あらゆる存在は(無形の事柄についても)、頑丈につくるから長期間、残り続けるのでは無いと想っています。丈夫な素材で堅固に建造するから在り続けるのでは、決して無いということです。
物も 人たちの想いも気持ちも、老人も病人も、優しく寄り添って、真摯に向き合って、ていねいに、慎重に、ゆっくり、おだやかに、気長に付き合うから、生き続けてゆくのだと想っています。
重篤な病人に 豪勢な料理をごちそうしてもダメだし。寝たきりの老人を 起こして、背中を叩いて、大声で励ましてもダメだし。
たった、今、たとえば、海辺で、じっと沖を眺めている人の目に映っている風景が、ぼくの同時に視ている、その同じ風景と「同じ」とは限らない。
その だれかにとっては、それは、悲しい海かも知れない。
「人の気持ち」は わからない
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薄く創ることは、技術的にも けっこう難しいです。量産できないです。正円形となると、さらに難度が増します。自分で創っていて、集中力が切れそうに成ってヘトヘトに成ります。焼成前に、ヤスリかけで、薄くしてゆくのですが、自分の握力で割ってしまったりします(笑)。ガックシです。
磁器土で創ると、薄く丈夫に創ることができます。しかし、ぼくは、信楽土を使用する事が多いです。「土」のほうが、素材的に温かみがあると想うからです。
なので、洗うときも、単独で丁寧に洗わないと、壊れてしまいます。
まぁ、そんなこんなで、ぼくの創る「器彫刻」は、『使えなくもない』という、あくまでも美術作品です。
自分で使うときにも「器を壊してしまうんじゃないか」と、ハラハラどきどきします。つまり、ちょっと、いつもとは違う日常を体感できるということです。
ていねいに使っていれば、壊れないです。喧騒の中、いつもより、すこし静かな一日を過ごせることと想います。というような現実的な「実用性」が ある ということです。
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