「行為芸術」。コンロ掃除

丸一日かかりました。
ここからさらに細部にこだわるとコンロ掃除だけで一週間はかかるだろう。しかも、仕事を休まなければならない。掃除と「自分の仕事」は平行して成せない。
しかも、体力を使って、とても疲れる。

さらに悪いのは、掃除をしていると「仕事をしているような錯覚」に陥って、ある種の充足感を体験してしまうこと。ある意味での「行為芸術」のようになってゆく。なにごとも、集中して取り組むと それなりの「おもしろさ」のようなことが視えてくる。特にコンロとかはピカピカになってくると「もっともっと」という気がしてくる。コンロと過ごした思い出があらためてよみがえる。危ない。しばらく使わずに展示してウットリ眺めていたくなる。

だから仕事上必要以外の掃除は、なるべく手を付けない。台所や玄関などの むやみな掃除は、創作の妨げになる。
仕事場の整理は、自分でなければ成せない。仕事以外の箇所の混雑混沌については、容認して我慢するような気持ちが大切。創作家としてなにを気にせねばならないかという優先を把握していることが重要。同時に一般社会概念の誘惑を断ち切ってゆくこと。

これは、自分の体についても同じで、美術家は視力や手足を失うと「自分の仕事」に大きく影響しますが、仕事にあまり関係の無い臓器は、摘出してもたいした影響は無かったようにおもいます。アスリートとかだと臓器の摘出は大きく影響するのだとおもいます。
いま、自分は循環器系が心配。あと、肝機能。

確かな事は、ぼくが、どれほど一生懸命に、ガスコンロをピカピカに磨いても、日本社会は決して「善く成らない」ということ。
部屋が散らかっていることは、自分が我慢したら済む。しかし、ゴミを社会に放出するということは、他者に迷惑をかけるということ。
ゴミと共に暮らしつつ これ以上 部屋がゴミの山に成らぬように思考工夫するほうが善いとおもいます。
放射性物質の海洋投棄についても 同じことが言えるとおもいます。
オリンピック招致では、都市美化計画が実行されるのかもしれない。森は伐採されホームレスは徹底排除されるかもしれない。

やはり、そこで、ぼくが考えるのは、
都市に住みながら「生活循環」を育んでゆくにはどうしたらよいか?ということ。
都市化がいけないと言ってるのではないです。
都市化による経緯によって、自然循環が欠落することがダメだということだとおもいます。
「人」が 知恵を出し合って生活循環を担って環境を育んでゆくしかない。言い方を変えれば、気づいた人がさまざまな木になり 豊かな森を創ってゆく工夫。草食系とか肉食系ではなくて「木のような人たち」の登場。
これも、極論ですが、心身健全な国家は、贈与社会へと以降してゆくとおもいます。
市民が、自発的に実社会に歩み出て、「自分たちで社会を創り育んでゆく」しかないとおもいます。

現行社会での実際問題は、都市部の定住者の自給自活の不可能。
そこを どのようにフォロー/サポート成し得るか、ということだとおもいます。
たとえば、地道な対話を育んでゆくことによって生まれる、相互理解/疎通連携。
つまり、まぁ、カンタンに云うと「仲良しがいい」ってことなのだけど。

仲良しが社会問題を解決してゆく。
って、無理かな~~。

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