たもと水産・魚三重の海の村で アートイベントを主宰していたことがあります。3年間続き 何度も 通いました。
出会いで仲良しになった 魚屋さんのトラックに絵を描くことになりました。そのトラックは 数年前に廃車になって、いまは、新しい車になっています。新しい車にも「絵を描いてほしい」と言ってくれているのですが、なかなか行けない。先日も わざわざ電話してくださいました。こちらからは電話はできないです、ぼくは電話料金を払えないから。
連絡したいし 会いたい人たちは、全国にたくさん居るのですが。ぼくは、ますます貧乏に成るばかりで、まったく実現していません。作品がなかなか売れないし。現金獲得が、本来の自分の仕事よりも忙しいし。近年、手紙を描く時間もなかなかつくれないです。自筆作文というのが、けっこう、難しくなってます。つい、パソコンとかネットに依存してしまって。軟弱です。
大切な人たちとの想いには、手描きでないと ぜったいにダメだとおもうのです。けど、もう、何年も、年賀状すら描けない。年賀状の返事すら描けない。ぜんぜん 時間が無い。一枚ハガキ文章を描くと1時間以上かかるときもあるし。頭が悪くて内容を考えるので もっとかかる。だから、ここのところ10年以上、後手後手です。みなさん ほんとうに ごめんなさい。凹みます。能力が無い。
現行社会のスピードに 取り込まれてしまってる自分。無念です。もう 個人の「人力」では、ほとんど無理。なにもかもが。
パソコン・ネット・メールなどの「通信能力」を買うことによって 自己(人間能力)の形骸を補完しています。もう「人間じゃ無い」って感じ(笑)。だって、相互理解・疎通連携を 『外付け』してるわけですから。自己サイボーグ化です。
こんな社会では、貧乏人たちは、疎外孤立淘汰されるばかりだとおもいます。

のろしをあげたり、太鼓をたたいたり。
ぼくたちの先人たちは、意志伝達・疎通連携を育んでいたでしょう。それは、「光の速さ」「音の速さ」で、連絡を成し遂げていたという事実。
現在は、光通信とか言うけど、たぶん、それよりも断然「光速」だったはず。「光と電波とどっちが早いか?」という微少の差異だとおもいます。その差が、ぼくには、体感としてわからない。ぼくの能力では、解らないです。わかる人が居ますか?
太鼓より のろしが 早いのは解ります。雷の音も 遅れるし。しかし、それにしたって、小さな社会の連携疎通に支障が起きるような、タイムラグでは無かったと想います。ビートとリズム。
現に、象や鯨は、大地や海洋の とても遠くの仲間と いつも疎通しているというでしょう?
象の耳は大きい 鯨の振動体感範囲はスゴイし。発声能力と受信能力。それは、犬の聴覚領域にも顕著でしょう?
ぼくは、人間も 人間なりの 優れた本来能力(純正の・基本の・ママの)があると思っています。それを「第六感」とか「超能力」とか「霊感」とかで 諦めて済ませてはいけないと想うのです。そこを 基点・起点としながら 科学や政治や社会を創り育んでゆけなければ、なんか、ズレていってしまうと想う。道具や機械が、人間の手足から乖離していってしまうとおもうのです。

「光と音」その体感継続の大切。ほんらいの当たり前の人間の体内能力。
そのことを 『祭』の欠かせない要素として 継承してるとおもいます。

え~と。
「文字の発明」という弊害もあると思うけど…それは、まあ 後で考えるとして。そうなっちゃうと ぼくの「手紙自筆」まで否定しないといけなくなるかもだし(笑)。
作画中・マアジ

ぼくは、彫刻家ですが、絵も描いています。
っていうか 彫刻家は、絵を描きます。当たり前のことです。三次元の住人は、二次元を目視理解できます。しかし、二次元の住人(仮想なので、出会うことはできませんが)には、三次元を理解することは、ほんとうに至難だと思います。それは、ぼくたち人間が、四次元をなかなかイメージできないのと 同じようなことだとおもいます。
三次元の住人にとって、二次元の理解表現をイメージするのは、わりとカンタンだとおもう。けども、それは、印刷の紙の厚みとか 絵画の絵の具の厚みとかを まったく無視した思考なのだけれども。完璧な「二次元」は、三次元世界では 実現しようが無い。二次元と三次元を通路実現(具現)することは 難しい。
そこらへんのことを 真摯に本気でテーマにして絵画していた先人が ゴッホ。ほんとーに スゴイ人だとおもいます。ゴッホは、狂人ではないです。

はなしが また スベってしまいましたが。

魚屋さんの車に絵を描きに行かなくてはならない」ような気持ちに 成ってきてます。
彫刻創作のために。「ぼくの屋久島灯台」を創る経緯への自己導入として。「海」へゆく。その「海」というのは、ぼくが、『カタラギ』という映画作品を創るために決めた海。あの海。

ぼくは、絵の具で 手描きで 車に絵を描きます。
ぼくの作画は、「ぜったいに パソコンに負けない」です。それは、ぼくは「人間」だからです。ぼくの「視力」は、世界を観察し タイムラグ無く 体感察知します。ぼくは、動物だから。生き物だから。
ぼくは(人間は)、ウインドーズよりもフォトショップより ぜったいに偉いです。負けるはずが無い。先人たちの叡智に あこがれています。
ぼくは、騙されない。人間は、機械に翻弄されては いけないとおもいます。
目のうろこを 落としに。三重へ行かねばならない。あの海へ。この脳内の海への直結。

えーと。余談かもだけど、マックは、偉いとおもう。道具だとおもうから。人間の手足に成れる。鋸や金槌や鉛筆と同じように。
ジョブスのスタンフォード大学の講演は、よかったとおもう。「やりたいこと好きなことが無いひとは、それを探したらいい。それを探す 見つける旅に出たらいい」それは、すてきだね。もしも、一生、見つからないとしてもその探求の旅は、けっして無駄ではないとおもう。

1312水産トラック・カサゴ のコピーカサゴ
絵を描くということは、高画質カメラで撮影するような 細密描写ということではないです。絵は、想いです。誓いのようなこと。

水産トラック右面・イサキイサキ
水産トラック・作画中魚屋さんは朝から夕方まで仕事なので、夜から夜中に描きます。
描き出すと、港町のいろいろな人たちが集まってきます。作画の背後で焚き火がおこり、魚介を焼きながら宴会が始まってしまいます。けっきょく、独りで集中できるのは、夜中からの仕事になります(笑)。
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きれいな海に 居てほしい
ぼくたちは 海を食べている 太陽を食べている

 

生きている「想い」を 空から俯瞰する
それが ぼくの作品「とりの とぶ たかさ」

 

空がある
海がある

 

人間には 守り 育む使命があると おもいます
人間という 動物の  友愛の役割

オリジナル・テーシャツを つくっています