ogata 791

ぼくは「美」について しばしば想い考えることがありますが、『芸術に美は必要が無い』と思うこともあります。

純度の高い「美」には、善も悪も無いとおもう。
無機的と云うか。人間の居ないような遠い宇宙の果ての真空とか。
森林限界を超えた高山とか。神に近いところ、みたいなか。完全な美。そこには善も悪も無い。ただ秩序(バランス)がある。崇高というか、神(真空とか死)に近い領域のイメージというか。
ぼくは、実は そういうのは、ちょっと怖い。確かに「美しい」。だけど、長居はしたくない…みたいなか。
たしかに 世に誕生して 死に至るまでが「人生」なのだとはおもいます。しかし、体感として わかるのは 「生きてる」あいだのことだけで…「どこから来て どこへ行くのか?」は、エーエンに自分にはわからない。っていうか、この「自分」っていうのが、自分の「人生そのもの」だと想ってるということ(笑)。あくまでも、主観は「自己にあり」っていうことだと おもいます。
自覚は無いが 「生」は延々と続いてきた。死は 消滅点か?。
そこで『無』ということについて 想いを巡らす。
「作品」が 生きるということは どういうことだろうか?

パーフェクトというのは、危険だとおもう。だからと言って、手抜きをするということではなくて。理想(テーマ)を目指す途上に歩みながら、どこか ほころびていなければならない。みたいな。むしろ冗長の中に生きてるような。
「生きている美」というか。そういうのが 好きなのだとおもいます。

ぼくの母親は戦中に立川の軍需工場で働いていたのだけど、東京空襲のときに、都内方向の空が真っ赤に成っていて、恐ろしかった。怖いけど「綺麗」だとおもった、不謹慎だとはおもうけど ほんとうに美しいとおもったと言う。
何万という人たちが燃えているのだけど。距離があるので 音もしない。
これは、オーロラの美しさのようなものだろう。って書いてるぼくのほうが不謹慎かもしれないけど。

もちろん、美をとことん描こうとした芸術もスゴイとおもいます。
たとえば、「美」について語るとき、レニを思い出す。ドイツの映画創ってたひと。純粋に美を追い求めた人。探求がブレない。
その創作姿勢や作品は純度が高い。ナチスのプロパガンダに利用され高い評価を受けた。
戦後はヌバ族の写真などを撮った。それも視たけど よいものでした。テーマが 徹底してる。レニの作品は ひたすら「美しい」、ピュアな美には 善も悪も無い。
すごい人だなあとおもいます。100歳くらいまで生きて、その年齢でもダイビングして水中の写真を撮っていた。ぁあ、そお、レニは女の人です。

ぼく的には、「美」について どうか?というと。
たとえば、「美しい人」とかは 指差せるけども、「美」そのものは、指し示せない。美しい絵画や美しい彫刻も 指差せる。しかし、それでもなお「美」そのものを指差したことにはならない。美しい風景も。星も太陽も。まあ、物語りも詩も言葉も。
それは、逆には「醜悪」についても 同じように云えるとおもっています。「醜い人」「醜悪な国策」「憎悪」…。しかし「悪」そのものを指し示すことはできない。
しかし、ここで 重要なのは それでもなお『「美」は存在する』ということを 私たちが たしかに「知っている」ということ。だとおもいます。そのことに ぼくはグッときます。

「美しい女の人」が居て、その いったい 何が どこが 「美しい」のか?
どこをトリミングして摘出して 話題にするのか テーマにするのか。詩人は 延々と 言葉を連ねる。しかし、「美」そのものに 到達することは無い。アーティストは「美」の外周を巡りながら 美を 表現してゆく。

無いのにある 有るのに無い。そういうものは、よくある。美や 醜悪だけではない。
重力も 光も 音楽も。
重力の影響を受けている物体物質を 指し示すことは可能だけれども、「重力」そのものを 指差すのは困難だとおもいます。「光」も、光源や被写体は 指差せる。太陽や鏡とか。しかし、「光」をのものを 指し示すのは難しい。今宵天空に輝く星は、ほんとうには、数万年前に消滅しているのかも知れない。
歌手や楽器やスピーカーや楽譜を指し示すことはできる。しかし、「音楽」を 指差せるか? 難しいとおもいます。
だけれども 重力も光も音楽も まさに 現実に「ある」でしょう。触れないけど まさに「ある」ことを 私たちは 知っている。

そのように、ほんとうには、ぼくは 世界の「何ひとつ 知らない」です。
何も知らないのに 完璧(パーフェクトについて)を語ることはできない
だけれども 自己の人生の周辺を わずかには知っている。その ちょっと知っていることを 描いたり 創ったりしている。ああかな こうかな と想いながら 手探りで 創作を 積み重ねる。

純粋が 果たして善いのかどうかもわからない。
だけれども 少しでも 善い社会を創り育んでゆきたいとは いつも想います。
善も悪も 概念だとおもいます。ある区切られた社会の中で つくられた社会性。
アーティストは、概念から離脱して 真理を探究する人たちなのだとおもいます。って云うと、大仰だけど。そこらへんのことが、「冒険は芸術に似ている」というところかもしれない。
で、冒険家もアーティストも 徹底してくると 宗教家みたいになってゆくことがある。

そこで、あまりに切実に純粋に 現実世界や実社会の困難を 個人が背負いすぎると たった独りで「全世界の問題を自責解決」する思考(使命感)に陥ってしまう。たしかに それは 真摯誠実な正義だと想うのだけど。その経緯で孤立して 生命を終えるのは 残念なことだとおもいます。
実社会の状況と 創作表現との バランスは 難しい。だれに向けて発信(発言・提示)するのか。公開するかしないか。発見されるかどうか。そこもまた 某冒険家の言う「認められたら 完了」みたいなことにも似ているとおもいます。

まぁ とりあえず
規則や制度や 先生の言うことの真逆へ 一歩を踏み出せば間違わないのにね(笑)
日本人の多くは、規則や制度を「守る」為に労働してしまってる。「形骸を死守する」みたいな…帳尻あわせばかりが優遇される。転倒社会に陥って 閉塞してると おもいます。道徳や倫理感や正義も 逆転してるでしょう。概念は、コケル。

だから、観察すること。視力を鍛えること。
再発見でもいい。カラスや タンポポを もう一回 発見したっていいし。電気やペニシリンを 発見してもいいし。
どんなに優れた専門研究者であったとしても タンポポの全てを熟知している人なんか 居ないとおもう。
人は「知ってる」「わかってる」と よくいうけども ほとんどのことを 知らないと思います。
だから、たとえば 子どもらが なにかを 見つけたとき 「ああ、それは もう エジソンが発見してるから」とか たしなめないことだと想います。それは 新鮮な発見。純度は高いとおもいます。
なので 美術家もまた 諦めないこと。だれかが「すでに やったこと」の 中に 想わぬ 落し物 活路 が 見つかるかもしれない。忘れられた事柄 隙間 そういうところに 待ち受けている「輝く何か」を 発見するかもしれない。
観察は 愛だとおもいます

世の中の 人が「生きる」ために ほんとうに大切なことの ほとんどは 指差せないし 触れないものばかりだとおもいます。愛しみや 楽しみや おかしみや 優しさや 喜びも…。
悲しみも 苦しみも 切なさも 寂しさも…それでも 寄り添う温もりの存在を 私らは たしかに知っている。

そのように 想うと
「道は 未知に 満ち 溢れている」と おもいます
限りない 前途が ひろがる
愛しみに あふれている

とか

まぁ、だから 「美」の探究とか 「純度」だけが 芸術では無いみたいな。
あーだーこーだ 四苦八苦の悶絶思考の 経緯とか 区切りが 「美しい」という風に 見えることもある。結果 いい作品が できました、みたいな(笑)。

言葉の羅列(吐露)に表れないことが 作品と成って 生まれてくる


添付写真は、10年ほど前の作品
人物彫刻は、むずかしいです。すいません。
精進して ぼちぼち がんばります