2015-06-15 20.56.38


南の島に住んでいる友だちのカップ
「カップをふたつ」と友だちから言われたのは、三年ほど前
長らく お待たせしました
近日中 旅立つよてい

このよーに オガタ作品は、現在、三年から五年待ちです(笑)。
頼まれてから、あーかも、こーかも、とか、相手のひとのことを あれこれ想う。考える。同じような作品は生まれることはあるけど。相手の人のことを想像するから、だから、ぜったいに「同じ」には成りようが無い。どうしてるかな、元気にしてるかなとか 想う。
とか、なんだかんだしてるうちに 数年は、あっというまに過ぎてしまう。どうして、時間というのは、こんなにも素早いのだろーか?
って、ひらがなとか、「ー」とかを 多用して作文すると 楽でいい。
どーか、怠惰を見過ごしてください。みたいなか。

七月中に夫婦茶碗を 創らねばならない。
これは ぜったい。
作品が到達する相手情報が、きょくたんに少ない創作に成ってるので、慎重に想像しています。というのは、依頼主と作品を実際に受け取る人とが違うからです。依頼主の友愛の仲間への婚礼のお祝いの作品ということだからです。
依頼主は、よく知ってる音楽仲間なので、依頼主の気持ちを まず想像することから 創作を開始してきました。

あと、注文作品は、いろいろあるのだけど、なかなか具現していないです。
もちろん、注文作品を思考するとか創る期間は、「自分の仕事」(「白いまち」シリーズとか「静物彫刻」とかの、ほんらいの創作)は 中断して休んで向かうので、ますます、本職の彫刻家から遠ざかるというか。でも、彫刻では、いい作品を創っても なかなか現金収入には成らないし、現実的には、「無一文では生きてゆけない」という現行社会と 実際的にまず向き合わねば成りません。ですから、まず「食うこと」。だから、個人注文で 器を創る。これは、創作家としての 必然だとも想います。
なかなか「やるべきこと」へ 向かえない。難しい社会だとおもいます。
なにひとつ成さないうちに 人生が おわってしまう(笑)

しかしながら、
「注文作品」ということは、創作の勉強になります。

それは、
だれに向けて なにを どう発表するのか、発信するのか?
みたいなこと。
これは、実社会における展覧会の規模や場所/空間とか、作品内容とかの選択肢と まったく同じ。
つまり、「一人」に向けて発信され開示される 展覧会のようなこと。
その人 個人だけの展覧会。それが ぼくの想う、器の注文作品ということ。最小単位の個展のようなこと。
それが、私的にパッケージされて 私的に旅立ってゆく。
受け取った人とともに さくひんは すこやかに ずっと

都市の美術館へと収蔵されてゆく 現代の美術作品とは、真逆の方向性。