2015-03-15 00.20.16


この時期は、年間で最悪の気分。年末よりも 凹む。年末もなかなか打ちのめされる季節だけども。

「なにかが 間違っているぞ」という感覚的な気持ち。
なにか、不公正な感じがして 現行の社会に順応する気力が無い。その感性は、たぶん 正しいとおもう。
にもかかわらず、
「どっち付かずの自分」を思い知らされ けっきょく 屈服従属化される季節。やっぱり、毎年 敗北する。敗走の人生を自覚する春。
ここで、「現行社会は、もう、見限ったから」と、きっぱり言えるだけの しゃんとした強靭な自己があれば よいのだけれども。まだ 屋根付き人生に 未練が在る。甘いとは おもう、軟弱だとおもう。

国民は、日々、板挟みの苦行か。あるいは 諦めるか。もしくは、麻痺するか。
民主主義と云うのに、買い物できる人たちと 買い物ができない人たちとの 生活の差異がありすぎる。
っていうか、このことは贅沢ということではなく、「買い物できない人たち」の生活が 厳しすぎはしないか?
基本生活の買い物が成せない人たちが 実際に居るということ。ぼくは、基本の衣食住は、できている。ありがたいことです。
しかし、「自分の仕事」へ ちゃんと真向かうことは まだ難しい。資本金ゼロで 倒産しながら企業しているのが 多くの 日本の美術家だとおもいます。
ぼくの場合は、自分は「美術家だ。美術家だ」「大変だ。大変だ」と、恥ずかしげもなく言いまくってるから、なんとか、生かせていただいている。「困った」と言うのが忙しくて、なかなか新作へ向かえないままだ(笑)。
謙虚な美術家たちは、そういう ぼくのような あつかましいことは 言わない。きっと 困窮に困窮に 耐えている。創りたい創りたい と日々 想いながら 創れないでいるに違いない。そして、だれにも知られないままに 無念の人生を終末していくのだとおもいます。美術家を自称するぼく自身、そういう人を知らないのだから、ほんとうに 知られずに ひっそりと ギリギリの生命線を繋ぎながら 創作活動をしてるのだと おもいます。そういう人たちこそ ほんとうに スゴイ芸術家だと おもいます。
ぼくは、ぜんぜん ダメです。

ほどほどに そこそこ苦しいだけです。精神的な苦しさのほうが大きい、それは、「才能が無いから」「実力が無いから」。
この時期は、かつての 美大受験の時期。ながらく 受験浪人していたぼくの「トラウマの季節」(笑)、と重なっています。この トラウマは、抜けない。今も、受験の「落選の悪夢」をみています。
だから、ぼくにとっては、二重に 自己嫌悪 敗北感 劣等感の季節です。ぼくみたいな愚人が、生きていていいのか? って おもう。「ダメ人間」感が 最高潮。

ぼくは、「芸大の内実」に とても興味があって 在学したこともありますが、一方では「芸大に在学すれば なんとかなる(芸術家に成れる)」みたいな とても甘い考えもありました(笑)。ところが、ほんとうに、そんな 甘いものではなかった。現実の大学についても芸術についてもいです。ビックリしました。大学生活は すごく 毎日が ほんとうに新鮮でした。それは、だけど、毎日が、「すっとんきょー」ということでした。結果的に 在学して善かったと おもう。知らなかったら ぼくは、感性が麻痺していたとおもう。

 

しかしながら、旅人には 「旅人大学」なんか 無いでしょう?
「冒険大学」とか「探検大学」とか、無いでしょう?
地平線会議の 「信頼と連帯」って だから、スゴいっておもいます。止まらない。生きてる。生き物みたいな 全体感。そして、個人個人が とっても 偏っていて おもしろいし。繋がってるからこそ、個々も 生きることが成せている。ある意味で 社会モデルのようです。

ぼくは、「芸術大学」って、その社会的使命を 果たしてるのかな?
って おもいます。
今ね。芸術は 瀕死ではないだろうか?

想像力/創造力と 現行社会の多くの賃労働とは、相反すると想う。
想像的/創造的な現場で 職務できている人たちは、きわめて幸せだとおもいます。どうか、その立場を 「実社会」に 想像的/創造的に 活かしてほしいと おもいます。

ぼくは、たとえば、大学勤務者の友だちと 連絡を取り合っているのですが、それが、なかなか難しいとのこと。まぁ、ぼくと 頻繁に連絡を取り合ってくれる教育関係の人たちというのが、そもそも、ほんとうに 少なくなっていますが。
まぁ、大学に限らずでありますが、教育機関と実社会との疎通連携(「信頼と連帯」のようなこと)が どんどんイマイチに成ってるとおもいます。
賃労働従事者は、その価値を 社会に還元していただきたいです。
そうでなければ、賃労働が 民主主義に併走することはできないと おもます。そうでなければ、教育機関に労働する 意味が「実社会」に活きないと おもうのです。

こちらも とにかく 踏ん張ってゆこうと おもっています。社会や文化に関心のあるかたがたは、教育関係者のみならず、美術関係者だけではなく、どうかどうか、あらゆるみなさまがた、一緒に 話し合って 「実社会」のなかで コツコツ実践してゆきましょう。おがたは 非力幼稚の無能ものでありますが、どうぞ よろしくおねがいいたします。


領収書を 仕事場でかき集めるのに一週間かかる。
まったく。とても、めんどくさい作業です。
しかも、想像の仕事と平行してできないから、「自分の仕事」を三月は ほとんど 休まなくてはならない。このことが、辛いです。厳しい。想像と「計算」は、使う脳が 違う。それは、ほんとうに 違うとおもいます。なので、数週間とか思考しなければ 辿りつけない「想像」は、この季節には 成し得ないということになる。
だから、単発的な 想像になる。分断。旅や探検では無くて「散歩」のような 想像力にすぎない。それでは、彫刻作品は 創れない。

「領収書をファイリングすれば楽だよ」という アドバイスが 毎年、ほとんど。それが できるならば、苦労は半減。ぼく自身 それができたら 楽だと毎年自覚しています。それは、わかりきったこと。それが できない人への ちゃんとしたアドバイスが なかなか来ない。
正月に「日記を毎日描きます」って 宣言して 描ける人と 描けない人とが居る。それと似てる。ひとには、できることと できないことがある。
できることと できないことが、人間にはあるとおもいます。
そこを どうするか?
ということを いつも 相談しているのです。そこを 工夫連携して行くこと。個々の才能を 活かし合う社会。相互理解/疎通連携。人の個性はバラバラ。バラバラだからこそ 出会いが活きると ぼくは、おもっています。

自己の抑鬱(卑屈/オガティブ)への旅路は、すごく気分が悪いけど とても苦しいけど
創作仕事に必要だから「やるしかない」。自己の暗黒へ行くしか無い。「創作」の為には、嫌だけどもやらねばならないことがある。それは、創作のためであって、確定申告が嫌なのは、それとは、一致しないです。どうしても、合致しない。

「ちゃんと」生きようと実践すると どんどん 現行社会から 乖離してしまう。
むずかしい。バランスとハーモニー

明日も 「買い物」しなければ、都市で生きるのは むずかしい
それは、創作の仕事というより 「生きる」ために

しかし、ぼくは、「生きるために創作」をしている人間

とか、だらだら描いて また 逃避してしまった