上下関係の層ではなく 円を仮想してみる
すると オガティヴは すべての中心 いわゆる核(コア)に位置することになる

ここで何故 球体では無く「円」かというと、それは、球体では コアは外骸に閉じ込められた存在でもあるから。
円は、永遠に連鎖することができる。全体像はどこまでも 奥にズンズン逃避してゆけるということ。 この経緯を意識の「のり巻き現象」と名付けることにしよう(笑)。
しかし、のり巻き現象も 周回してしまうと ドーナツに成ってしまう。そこを 合致せずに スパイラルしてゆくことがのぞまれる。下降も飛翔もせずに 平坦なうずまき。蚊取り線香のようになってゆく。
っていうか、どーでもいいといえば、どーでもいいことなんだけど。

上下関係を円で図式してみると いちおう「核」ということで。
だからどうということはない。
下だからダメということでもないと おもうけど。まあ そのことは いまさら どうでもいい。

円コア思想は 奈落のイメージ回避である

此処(ぼくの仕事場)は、大学のように高度高価な設備も無い。シンプルな工房。
此処でも(独房でも、どこでも)、成せる研究(創作)が有る。それは、自己の内部への探査(取材)。
自分探訪は、旅費がタダだーー!。だけど、しんどい。

自分が 自分を知るしかない。
「自分が知らない自分」は、世界中の だれにも知られぬままに死んで行く。それは ぜったい確かなこと。

人間は、都市人は、なにに抑鬱しているのだろうか。
ぼくたちが欲しがるものは 抑鬱からの回避手段か?
では、「必要」とはなんだろう

ほんとうに 市民が必要なことはなんだろう
それは 国策や企業が 教えてくれるのだろうか? ならば、スマホを眺めて 待っていればいい。今日 どこでなにを食べたらいいか? 今日 だれと会えばいいか? 自分は だれを好きになるべきか?

抑鬱や閉塞や孤独は いったい どこからやってくるのだろうか?
原因は なんだ?

自己を いったい いつどこに「どのように」解き放てばよいのか

空を掻く手は やがてダンスになるだろう
うめきは やがて唄になるだろう

2015-02-25 00.45.23