おがたは、「46作品」を創れておりません。年内の46作品発送は、もはや不可能であります。来年に期待してください。ご乗船のみなさま、申し訳在りません。
「自分の仕事」(創作)も出来ておりません。
では、なにをしておるのか?といいますと。おがたは、自分の作品の販売活動とかアルバイトをしております。それはなぜかと申しますと、現行日本社会は「買い物」をせねば、生きるということが至難だからであります。
つまり、「食う」為に 金銭獲得活動をしているということであります。
とりあえず「自分の仕事」(創作)を放ったらかして 「生きる」(食などの生活)ことを優先してしまってるということであります。

日本の美術家は、アルバイトも自分で編み出してゆかねばならないです。
たぶん、ここで「え。なぜ?」と思う方々が いらっしゃると想うので そこらへんのことをぼくなりに 少し書こうかとおもいます。
ぼくが「芸術家」を目指している要素(希望)のひとつでもあるからであります。

って、テーマを書いて、いきなり躓いてますが。
この件は、46会員のE本さんに手描き「手紙」で郵送してしまったので、手元になにも下書きが無いです。メモくらいパソコンに写しておくべきでした。コピーや復元とか不可不能の 一回性を重視して生きてるので、このようなことが いろいろな局面で発生します。自業自得であります。

日本では、美大を卒業すると いきなり「社会」「プロ」です。たった「一人」で、金銭優先社会と対峙しなければならないです。
日本の美大は、設備は最高度に充実しています。これは世界有数です。なので、学生時代は高度な機械も使い放題です。彫刻科では、溶接機も大型コンプレッサーも削岩機も使います。数千万円もするような機材も大学にはあります。しかも、日本の美大は、卒業生がちょくちょく戻って活用できないような仕組みになっています。
なので、卒業者は、社会に出たとたんに「手足をもがれた」ような状態に陥ります。才能技術はあっても、創作仕事の実力は活かせない 金銭も無い。それは、とても「怖い」です。ビビります。おもいっきり凹みます。自己不信にすら陥ります。
なので、卒業者は、「自分の仕事」どころか まず「生きる」為にバイトしてしまったりします。芸術家に成る事を諦めて 美大の先生に成ってしまうひとも居ます。
しかし、この現実、彼らを決して責めることはできないと ぼくは考えています。ぼくは、こういう状況は「社会問題」であると 捉えています。
現行日本社会のような「金銭最優先」社会の中では、『無一文に成るのが怖い』という気持ちは とても正常な感性だとおもいます。アーティストに限らず日本ではだれしも「買い物」しなければ食えないのだから。
しかも、日本は「スラム構築禁止(共同体の禁止)」「タカリ禁止(無心は恥)」さらには、最近「使える物が、なかなか落ちていない」。そのうえ核家族。競争推奨。金銭的自立推奨。これでは、アーティストは四面楚歌です。美大卒業した時点では ほとんどのアーティストは無名です。たくさんの作品と共に暮らしていても、作品は金銭には成らない。むしろ、作品が場所を取って、作品保存の為に家賃を捻出するような年月が過ぎてゆきます。

日本の美術家たちは、卒業したら「いきなりプロ人生」を歩んでいます。ですから、人から「普段は なにをしてるのですか?」と聴かれると当然「彫刻を創ってます」と仕事のはなしをします。すると、相手は「それは、素敵なご趣味ですねー。ところで お仕事は何を?」って 再び問われてしまいます。それが現行の日本の社会常識(概念)だと思います。このことは、もう数十年も前からずーっとなので、しかたがないと自覚しております。
社会文化は、市民たちが自ら創り育んで行くものであるという常識が日本の社会人には身に付いていないです。日本人には、まだパトロン意識も定着していないです。
アートという生き方は「贅沢な人生ですね」「優雅ですね」と現実社会(日常生活)とは距離を置いて言われる程度なのだとおもいます。

では、日本のアーティストらはどうすれば善いか?というと、ぼくは「飢えたらいい」と思います(笑)。これでは、身もふたもないので、少しこのことを書こうかと想います。

アーティストは、ではどうやって現行日本社会の中で「自分の仕事」を探求更新してゆけるか?どのように生きれば美術家としての社会的使命を果たしてゆけるか?ということを一生懸命考えたらいいとおもいます。短絡的にバイトを探すということではなくてです。
資金を獲得するにしても「借金」でも「物乞い(無心)」でも善いと想います。ただし、サラ金はダメだとおもう。知らない人ではなくて、身近な友人や親族。かけがえのない友愛を失うかもしれないというリスクが必要だとおもいます。どういう結果が訪れようと、そこに「学び」が生まれるから。それに、知っている人からの借金や贈与の方が、大切に使う。金銭の移行には愛情が伴うべきだと想うし、そのようにして金銭は繋がって社会に活きてゆくのだとおもう。だから、銀行やサラ金で借りるのは、イマイチ甘いと想います。
友だちが、金銭を贈与してくれなかったり貸してくれなかったら、まぁ、体を資本にして仕事を頑張るしかない。すると病気入院手術を繰り返すことに成ったりします。そうすると、よけいに友だちに看護や金銭支援してもらう結末に成ってしまう。そこで気づく友だちも居ます。それでも気づかない人が多いと想いますが。
普段からちょくちょく支援していると小額サポートでいい。ある程度の日常健康を維持しながら仕事を継続できたら善いわけだから。
もっと云えるならば、「借金」や「無心」が悪いのではないと想います。借金した金銭であろうが、タカって得た金銭であろうが、市民が「買い物」する限り日本の経済は停滞したりしないですから。現行日本の諸悪は、悪徳雇用や悪徳金貸しだとおもいます。ですから、アーティストらは、そこにこそ徹底的に対抗してゆかねばならないはずだと想います。
どれほど、国策や企業が雇用仕事を増やしたとしても、その仕事が社会や人々の為に成っていないのであれば意味価値が無いとおもいます。原発問題にしろ 水俣問題にしろです。先日「地平線会議」で話題に成ったリニア雇用についてはどうでしょうか。オリンピック雇用はどうでしょうか。
原発労働が無くては子育てが成せない人たちにとっては、原発は無くては成らないもののはず。そのような社会で善いでしょうか?

ぼくは、国策や企業からの雇用提供を待っているだけではなくて、市民が自発的に仕事を編み出してゆくべきだと想っています。「必要」ということは、国家や企業に与えてもらうことではなくて、市民の側に生まれるべきことだと想うからです。市民は、自分たちの「必要」に応じた雇用『仕事』を編み出してゆけば善いとおもいます。そのことによって、各地の人々に合った社会を育んでゆけるとおもいます。
たとえば、スマホを見つめながら「自分が今 何を必要としているのか?」「今日何を食べたらいいのか?」「今日だれと遊んだらいいのか?」を 教えてもらうのを待っていてはダメだと想うのであります。社会人という自負があるのであるならば、自分自身の側に「必要」が生まれ、それをナマに人と対峙し相談しながら具現してゆく工夫をしてゆくべきだとおもいます。そして市民の側に生まれた「必要」をサポートするのが、本来の国家であり企業の使命だとおもいます。ですから、あらかじめ「多機能機器」など つくってくれなくてもよいとおもいます。自国民の自発自力能力をなめてるとおもいます。

ということで、
アーティストは、自分自身でアルバイトを編み出してゆかねばならないと想います。アーティストも一市民であり一社会人です。なので、「社会人」「市民」としての成すべき行為を態度姿勢で提示してゆくということ。
なので、ぼくはオリジナル「缶バッジ」「絵はがき」「地平線二次会の北京の餃子のようなもの」とかとか 今までいろいろ創って販売してきました。彫刻家という本来の仕事を休んで創るアルバイトです。まぁ、そのバイト自体が ぜんぜん売れなかったりするのだけど(笑)。宣伝営業をする暇が無いです。そもそも「自分の仕事」を休んでバイトしてる状況なのだし。
実際的に 創作者(生産者)個人が、宣伝とか販売を平行して同時に行うのは、限界があります。だからこそ画廊というポジションが社会には必要なのですが、その画廊がイマイチ社会的に機能していない。社会文化を創造してゆく担い手としての理想や使命感よりも、どちらかというと金儲けみたいな位置に陥ってしまっている。これでは 社会は善く成らない。

ぼくは、大学は「アーティストの為の確定申告講座」を必修にすべきだとおもっています。「芸術家を社会に排出する」とうたっている芸術大学が、なんら実社会に対応していないのはオカシイとおもいます。卒業したら いきなり消費社会に直面する元学生。在学中から、日本の国策や実社会の本質を知らせる責務が美大にはあるとおもいます。しかも、設備機材は超充実させる一方なので、生まれるギャップは悪質だと想います。
たとえばドイツの美大では、大学そのものには大した設備は無いです。どうしてるか?というと。在学中の学生が「創作計画」を提示します、その内容によって、教授ないしは大学担当との相談検討のうえで、学外の実際企業・工場などと疎通する、そして学生自身が実社会へ出て工場などで制作する。学生は、プロの職人やエンジニアの指導のもとに「創作作品」を立ち上げてゆきます。社会の現場で現役のプロと仕事をする。その経緯によって、職人とアーティストの差異ということも、お互いが認識を新たにし友愛を深める。商品と作品の違いというか。量産と唯一のこととか。社会における 芸術家の必要性が 現場で生まれてゆく。市民との距離の無いタイムラグのきわめて少ない美術教育の実践だとおもいます。
学生も在学中に社会とのコネクションが育めるので、日本の卒業生のようにオタオタとビビらなくていいです(笑)。
要は、どこに知恵を使い、どこに金銭を使うかっていうことなのだと想いますが。数十年前の不用道路計画を今頃復活強引実行工事してるような日本国策では、ドイツの実情を参考にするのは無理だとおもいます。だからこそ、市民レベルで 気づいた人たちが自発的・自覚的に工夫を成してゆくことが有用であるとおもいます。その具現は、小さくていいとおもいます。まぁ、局地的な善戦をコツコツ積み重ねてゆくこと。「善践」と描くのがよいでしょう。
「社会」ということは、さまざまな分野(個別性)の市民たちによる「生きている共同作品」であると想います。

大学の非常勤講師くらいならば、創作家を実行するための副業として申告可能だとおもいます。専業農家の人が耕耘機を購入するために出稼ぎにゆく感じです。美術家として経費申告してゆくということ。ちゃんと自称「美術家」が 社会内にもっと常識的に増えてほしいです。
責任を自覚して「美術家」を 生きてほしいです。

さて、アーティストのサポートというと「46号」ですが、この会は、言わば「おがたファン倶楽部」。アートとはあまり関係の無いとも思える、旅人と冒険家と探検家の集まり「地平線会議」の有志である、丸山純さん武田力さん長野亮之助さんが、立ち上げてくれました。
ぼくの想いでは、旅人はクリエーターだとおもうし、美術家は旅人だとおもっています。だから、どこかしら感性や視点が同じく重なるところがあるのだとおもいます。もっと云えるなら、地平線会議参画者に多いボランティア活動や福祉関係も想像的/創造的なことだとおもっています。

で、46号は、「拡散パトロン方式」と云えると想います。これは丸山純さんの発案ですが。
似たようなことをパウル・クレイという画家が実践していました。クレイが立ち上げたのは「パウルクレイ協会」。「自分ファン倶楽部」(笑)です。クレイはファンの支援金によって、エジプト取材に行ったり子育てをしていました。支援者は、安くクレイ作品を購入することができます。クレイとナマに会って話したり 仲良しになることができます(笑)。みたいな感じだったとおもいます。だから、かんたんに云うと「顔が見える産直農家」みたいなことだと想います。クレイ協会は、友だちたちが、楽しみながら参画するみたいな感じ。
えーと。ところで パトロンが拡散することの社会的メリットはと云うと、株の買い占めみたいなことが起こりえないということだとおもいます。たとえばミケランジェロは、独占パトロン支配から逃れる為に、一時期「山にこもって隠れてた」。ミケランジェロは、自分の好きなように創りたい芸術家。こもった洞窟か小屋の壁に描かれた絵が、いいなと想ったことがあります。施主の意見は「絶対」という感じだったとおもう。辛かったとおもいます。超巨匠ミケランジェロでさえ、自由が無かった。
クレイは、素晴らしい「先例」を生きてくれたとおもいます。

あと、「カストロ方式」というのがあります。
篭城しながら勝利したのはカストロだけだとおもいます。実際には、勝っていないけど。しかし「負けてはいない」でしょう。
カストロが何故、負けなかった?というと。それは「自分らは、帝国にいじめられてる」「国民は、こんなに困ってる」「大変だ」「つらい」「せっぱつまってる」「ギリギリだ」「だけど、みんな、こんなにがんばってる」という、今の「自分」(キューバ)をリアルタイムに世界中に発信しつづけたからだとおもいます。理論武装では無く、当たり前の「今、此処」を言い続けた。

美術家という職業は、仕事に没入すればするほどに社会と隔絶してゆきます。創作しごとは、ある程度ひきこもらないと考えることができないです。
たとえば、音楽家は、コンサート開催に合わせて自己ベストの体調をつくってゆきます。アスリートもだとおもいます。そして、自己が、もっとも「仕事をしている現場」を他者に披露することが成せます。
しかし、美術家は、極論的には、展覧会開催の時点で死んでいてもいい。納得ゆく作品が生まれたらば、本人は存在する必要があまり無いです。ですから、作品完成の時点で体調がボロボロになっていても社会文化には影響しないです。作品をまっとうしたら 力尽きてよいということ。
今まで、多くのアーティストたちが、声を出せず、自己の世界観の深淵の探査中に孤立遭難死してきたとおもいます。

日本のアーティストたちは、「自分」を周囲に語り続けてほしいとおもいます。もちろん、その声が、支援に活きることは少ないとおもうけど。自身の「くよくよ」「卑屈」「敗北感」「劣等感」「罪悪感」なんでもいい。
その、ほとんどは、社会問題だとおもいます。だから、アーティストこそ 言っていい。言うべきだとおもいます。友だちを無くすかもしれないけど(笑)。

誤解を恐れずに、もっと言えるならば、
「アーティスト」という行為は、実社会に自己を投じて行われる 生体実験。実社会内にタイムラグ無く連続的に展開される生存の可能性の提示。
人間の「生きる」のあり方の 模索更新。
自身が研究者であり、自身が被験者(モルモット)。
その経緯での 自己統合が とても難しいけど。そこをがんばる。バランスとハーモニー。

市民の支援が必要だとおもいます。

とか。
いろいろと 長々と描いてしまいましたが。
一言で云うと「貧乏を恐れないでほしい」ということだとおもいます。
日本のアーティストたちは貧乏を恥ずかしいとおもわないでほしいです。貧乏を無視することのほうが、ずっと恥ずかしいことだとおもいます。無視されたら ガッカリしましょー(笑)。

さいきん、「クラウドファウンディング」というのが、ちまたで流行っていますが、
美術家という生き方は、起点から ず〜〜〜〜っと クラウドファウンディングの連続だとおもいます。口コミくらうどふぁうんでぃんぐ。

アーティストたち まぁ ぼちぼち 楽しみながら がんばりましょ〜
ぼく自身 貧乏がすごく怖いです 「無一文」で現行社会を生きてゆく自信なんか ぜんぜん無いです。

ということで


美術教育も芸術も、コツやテクニックや技法や技術じゃ無いとおもいます。

魂を呼び覚ますことが大切
魂に気づくひとは、自分自身で 勝手に技術や技法を編み出してゆく

芸術は、「魂の労働」だと おもいます。

人間は「魂を生きなくてはダメだ」
あいかわらず 大仰で ごめんなさい

2014-12-22 01.59.36自発アルバイトで「年賀状」制作中

今年は、あれこれ忙しくて 本業がなかなか成せなかった。創作計画の集積のみ。

自分では 賀状は出さないです。
1412羊前進2 のコピー「未」
年内に完売しないと 次の販売は12年後〜〜

12年後は、ぼくは 居ない