2014-11-14 11.06.32

 

カップ完成。
っていうか、もちろんこれから焼成しなければなりませんが。

ぼくの、作品は、焼成前までの制作が創作の中核だと思います。気持ち的には、このまま焼かずに「完成」作品(表現提示)としたいところです。
では、なぜ焼くのか?
それは、「実用化の為」と云う事が理由のほとんどではないかと思います。まぁ、だから、ぼくの作品は、実用というところは、作品のオマケ(オプション)みたいなものかもしれない(笑)。

実際に使う事もできる『器彫刻』という感じ。
この作品は、象嵌部分の工作が時間がかかりました。あと取っ手の基部の整形。一点創るのに一日半かかりました。やっぱり、ぼくが創る気持ちは、商品ではなく「作品」という想いが大きいです。

ここで、陶芸家だと、これでは、実用品(商品)としては、生産コスト的に割りに合わなくなってしまう。と思考するのだと思います。
で、象嵌の作業工程の簡略化を思考すると思う。作業効率を優先するということ。量産が可能になってくる。
でも、そこを規格化(方法化)してしまうと 手創りと造形とのバランスが共鳴共振しなくなってくる。ここの工程造作は、どうしても「こうでなければならない」という気がします。取っ手の基部についてもです。細部と全体シルエットとのバランス。作品の「はらみ空間」には厚みなども影響します。実用性よりも「存在」のリアルや作品がはらむ時間経緯を重視しているのだとおもいます。
だから、自分は、どちらかというと「彫刻家」なのだとおもいます。

なので、材料の寸法記録や型紙も記録することは少ないです。
「似たような作品」は創れますが、同じ作品は二度と創れないという状況を維持します。そのことによって、毎度、新鮮な心持ちで創作制作に向き合えるからです。教本を残さない、と言うか。常に体感記憶に問いかけるというか。

なるべく 慣れないこと。慣れずに 腕を落とさないこと。
方法的には、口頭継承による古典舞踊の 積み重ねみたいなことに似ているかもしれない。

素焼きで形が緩むので、もう一度 ヤスリがけします。
それから釉薬をかけて本焼きします。