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「行為芸術」(市役所編)を実行してきました

ぼくは、某国某県某市に居住しておるのでありますが、市役所に行きました
美術家の説明。
彫刻作品を二点持参。実際に 作品を手に取って体感していだだきます。

わりと疲れました。体力を使います。いまひとつ「自分の仕事」の説明が下手だとおもいます。なかなか上達しない。
美術家は、たんなるクレーマー。幼稚な暇人。って思われているみたいな気もします。担当者が変わったので、最初の基本から説明。毎度担当が変わる度に、同じことに成ってしまう。市政部署内の引き継ぎがうまく成されていないのだとおもいます。
美術家という職業は、一人一人がまったく違う仕事を育んでいるので、ほかの職種のように分野内の共通項が少ないです。それは、創作者各人の世界観が個別であるということに由来するのですが、そのことについての説明は、かなり難しいです。「なぜ、世界観(起業理念?)が、各人別個である必要があるのか?」、そもそも、そこらへんのアートの基本説明が難しいです。
あとは、依頼性の皆無について…とか。カンタンに云うと「頼まれて芸術家に成った人」は、歴史上ただの一人も居ないということ。ピカソもゴッホもベーコンもユトリロもワッサーも藤田嗣治も…だれかに頼まれて芸術家に成ったというわけではないです。
創作者という職務に携わる人たちは、だれにも頼まれなくても 「ちゃんと」仕事をしないといけない。そうでなければ、実社会に一市民として仕事して生きる意味が無い。

あまり多くのことを説明しても 把握し辛いと思うので要点をいくつか述べてゆく。

ぼくは311災害以降、窯を使えておらず、仕事が正常に起動していない。某市は窯を二基所有している。公民館のような施設にある。
その窯を貸してほしいということ。焼成費用は、支払う。
しかし、貸してくれない。陶芸教室などには貸してる。しかし、プロには貸さない。意味がわからない。
「趣味の余暇として窯を貸し出すが、プロの美術家には窯を貸さない、ということが、どういうことかといいますと。それは、趣味の家庭菜園をやってる市民には耕耘機を貸すが、プロの農家にはなんら支援をしないということと同じですよ。プロの美術家を市政が支援することで、税収もあがるのですよ」
部署が違う、担当が違うとかで、あちこち行って説明と提案をしてみましたが、「規則ですから」という返答しか得られない。「ぼくは、その規則を変えた方が好ましいという提案をしているのですよ」と云っているのですが。つまり、「規則を変えるには、どこのだれに相談すればよいですか?」ということ。しかし、どこへ行っても「規則ですから」なのです。
では、いったい「ぼく」(一市民)以外のだれが 規則を制定する会議で、このような提案をするというのでしょう?

市政は、市民たちが社会を創り育んでゆくことに協力してほしい。しかし、「いつ滞納金を払えるのですか?」という話題に戻ろうとする。「それでは社会は善くなりませんよ」と ぼくは云うのですけど。「ほかの市民のみなさまにしめしがつきませんから、少しでも払ってもらいたい」と、やはり、金銭徴収のつじつまを合わせる話題に転化してゆく。

公務が金銭徴収係に陥っている。
公務員は、金銭要求よりも まず社会や文化に関心を持つことが必要だと思います
監視管理ではなくて興味や関心を持つことによって、市政の責務に気づいてゆくことが成せるとおもいます。

社会文化というものは、国策や企業から与えられるものではなくて、市民が自発的に自分たちで育んでゆくもの。
それをフォローサポートするのが行政の使命。市政は、市民を愛しているだろうか。
ぼくの提案は、市政レベルでなんとかなる範疇の内容。

美術家も一市民
某市にも美術家が住んでいて 仕事をしている。美術家というのは、どこか遠くの「市民から遠隔された別天地や辺境」に住んで仕事を成しているのではないです。「スマホ」や「テレビの中」とか「日曜美術館」とか「美術教科書」とかに住んでいるのではないです。「知らない」ということと「遠隔」を混同認知してしまっては、現実社会はますます希薄に陥るとおもいます。
たとえば、「文化は、画家と画布の間で生まれている」 という実際。

市政が市民を支援することで確実に税収も増える。
なのに、なぜ、公務の基本を無視してしまうのだろうか?

貧乏だから納金できないのに
さらに、なぜ延滞反則金を欲しがるのか?
意味がわからない。
つじつまが合わない。
貧乏を咎めてこらしめても、社会は善くならないと思います。

公務という職務は、社会の息吹きを気づいていくようでなければ務まらないと思います。
市役所に学芸員を何名か常駐するということもよいかもしれない。美術館にではなくて市役所にです。公務する本人自身が社会や文化に興味あるような人たちが役所に勤務することはよいことだとおもいます。

市民一人が、何をしても日本の社会は変わるはずが無いと解りきっていても、やっぱり、行為して、やっぱり疲れます。美術は四面楚歌の徒労行為です。
しかし、やらねばならない市民行為だとおもいます。他の市民たちも、ちゃんと必要を市政へ説明すればいい。
窓口から上へと意見や提案が伝わっていくように成らなくては市政は活性しないと思います。
公務に関わるたくさんの人たちが活きないと思います。
しかし、いつも市民たちと向き合っている窓口の人たち自身に自由な発想が無い感じがします。上からの指令を忠実に成すことが善い社会を育むことに繋がるのではない。間接民主主義での提案は、下から上へと伝わってゆかねば、実社会に活かしにくい。最初の窓口で停滞していたのでは、前途は長い。部署内での対等な議論とか有効だとおもいます。
少しずつ少しずつ一歩一歩

ぼくは怒っているのではないです、愛だと思います。

人と『仕事の話』をすると たいがいすれ違う
ぼくは、「情熱」とか「魂」とか「誇り」とかの話をしているのに
相手は「カネ稼ぎ」や「買い物」や「帳尻」の話をしているんだ

日本人らは、経済が動くことと 社会が善くなることを 同じだと勘違いしているのではないだろうか。
善い社会は、市民らが 自発的に自分たちで育んでゆくしか実現は有り得ないとおもいます。

実際に自分自身が社会参加しているという体感
そのことによって、実際に善い社会に向かっているという実感を獲得できていること、

これからの社会は、贈与する側と必要とする側の対話が 常にあることが大切だと思います
たとえば、贈与社会ならば、作りすぎたものを何とか分かち合って活かそうとする、その経験値が 生産へ活きてくる

そのことによって、それぞれに個性的な社会が育まれてゆく。そのことが、国全体を豊かにしてゆく。
国策や企業による「必要」を此処に具現するのでは無く、今、此処の「自分たちの必要」を少しずつ手中に実現してゆくことが、大切だとおもいます。

雇用の増加では、社会は善くならないとおもいます。
人々や社会のためになる雇用でなければ、意味・価値が無いとおもいます。

実際に手にして視る美術作品よりも、「一万円札」の手中のほうが、意味や価値があると実感するのは、幼少から周到に教育された価値概念によって、観察(関心・興味)に規制がかかっているからだとおもいます。ピカソやゴッホのサインが明記されているから創作に「価値」があるということではない。
人間には、ほんらい、観察によって自力で 価値や本質を判断できる能力(継承された自分力)が そなわっているはずだとおもいます。
「なんだか おかしいんじゃないの」「これが いいんじゃないの」ということを スマホやテレビに 教えてもらっているようでは イマイチだとおもいます。自分が何が好きなのか 自分が だれが好きなのか だれに会いたいのか 自分がなにが必要なのか、自分はなにをやりたいのか 自分は今日なにを食べたらいいのか、何を買ったらいのいか、何をして遊べばいいのか 自分はなにを勉強したいのか いまここをどうしたいのか …そういうことを国策や企業に 決めてもらっていたのでは、市民はダメだとおもいます。自分は、なにが「必要」なのか。「必要」の気持ちは、市民の側に所在するものであるとおもいます。